平成20年に千鹿頭神社を参拝しました。その折りに、頂部に[+]が刻まれた地上高約36cmという石を見ました。
行き会ったお年寄は「境石だろう」と言いましたが、一文字だけ読めた「様」から、便宜上「○○様石」と命名しました。
思い出しては解読を試みますが、無駄に終わっていました。それが最近になって、中の文字が「角」であることに思い至りました。そうなると、「十字→境石・三角点」の流れで、上を「三」に当てはめれば「三角標」と読めます。
当初読んだ「様」は「標」となったのですが、平成25年に撮った拡大写真ではコケが厚くなっており確定できません。現地で確認することにしました。
久しぶりとなった境内ですが、白く広がったマレットゴルフ場には違和感を覚えます。現状変更に届け出を義務づける神社庁がよく許可したと思いますが、それなりの手続きを踏んでのことでしょう。
それより「三角標」ですから、拝礼を済ませてから、その前に屈(かが)み込みました。さっそく手近にあった枯れ枝でこすりますが、コケは意外にも頑固で、背中に直射する陽光もあって上半身が汗ばみます。
「ワイヤブラシかタワシ持参で再挑戦か」も浮かぶ中で何とか取り除くと、「三角標」でした。ただし、文字はこれだけでした。
実は、事前のネット調査では「三角標」の明解な定義を見つけられずにいました。そんなこともあり、思いついて十字の一方向を透かすと、「その先は、測量の基準になる何か」は外れ、意味がありそうなものはありません。
代わって90°回り込んで刻みの先に目を向ければ、千鹿頭神社の社殿です。細めた目で溝を正確になぞると、覆屋内の本殿を指し示しています。
頭の中で何かが一瞬光りましたが、「そのラインに何の意味があろうか」に落ち着きました。
「三角標」をネットで検索すると、何れも「宮沢賢治」絡みです。
…白くあらわされた天の川の左の岸に沿って一条の鉄道線路が、南へ南へとたどって行くのでした。そしてその地図の立派なことは、夜のようにまっ黒な盤の上に、一一の停車場や三角標、泉水や森が、青や橙や緑や、うつくしい光でちりばめられてありました。
ごとごとごとごと汽車はきらびやかな燐光の川の岸を進みました。向うの方の窓を見ると、野原はまるで幻燈のようでした。百も千もの大小さまざまの三角標、その大きなものの上には赤い点点をうった測量旗も見え、…
ここに登場する三角標は様々な解釈があって、一般的には三角測量で使われた櫓(やぐら)とされています。しかし、『国土交通省 国土地理院』〔観測する目標をつくる〕では、「観測地点が相手から見えるように、観測がしやすいように「やぐら(一時標識)」を作ります(造標)」とあり、イラストでは「測量標(一時標識)」と書いています。
次に目を通した、ネットで公開されている論文の抄録に以下のものがありました。抜粋です。
これで、一過性であっても、「三角標は三角点」と明解な定義ができました。
改めて千鹿頭神社の三角標を振り返ると、他に刻みは無く、形状も自然石です。それを明治初めのまだ定まっていない形式の三角点とすれば、納得できます。
古さでは及びませんが、「明治四十三年(1910)測図昭和六年要部修正…」とある五万分の一地形図『諏訪』から、千鹿頭神社周辺を切り取ったものです。
これを見ると、三角点はありませんが、上川(かみがわ)の上という表記ですが位置的には「これがそうか」という1,5が…。
ところが、凡例で確認すると、(一時は「岸高」としましたが)「水深」でした。これで、ここでの三角標は三角点ではなく、水深の標石である可能性が高まりました。
改めてこの地図で[水深]を探すと各所に散在しており、その場所に同じ三角標があれば水深の標石と証明できます。こうなると「現地で確認」と気がはやります。
まずは自宅の周辺にないかと平成の地図を開けば、…一箇所もありません。河川改修が進んだ結果、2mを越す深さの川は無くなったのでしょう。当然ながら古い標石は撤去されたことになります。ここで急速に「やる気」がしぼみ、明日の予定はキャンセルとなりました。
対岸から千鹿頭神社を眺めると、護岸が石積みです。その「乱雑さ」に気が付き、それを「古さ」として見ると、明治時代の工事とすることができます。
そのことから、三角標(◯)は神社の境内に設置されたので今に残ったのではなく、現在まで護岸が改修されなかったために生き残ったということになります。この状況証拠に加えて地図の表記[水深]ですから、三角標は水深の位置を表した標石と確定しました。
改めて、「水深を測った場所を見詰める三角標」を撮ってみました。
岸辺からやや離れた位置にあるので原初の設置場所から移された可能性がありますが、これで、平成20年以来の謎を令和3年になって解き明かすことができたことになりました。