『諏訪郡諸村並旧蹟年代記』の〔一、上原村〕に、「永明寺の上に諏訪美作守の石碑がある」と書いてあります。
名門の諏訪家であっても、官職名では、私には“馬の骨”と同等になってしまいます。調べると、美作守(みまさかのかみ)は「初代高島藩主頼水の弟で、二之丸家を興した頼雄(よりかつ)」でした。
この書は江戸時代末期に書かれたものですから、今もその碑が存在しているとは限りません。それでも、「二之丸家の祖」とあれば何か気になります。私の知る限りでは、千鹿頭神社の上部は一般の墓地「千鹿頭墓地」があるだけですから、図書館で、まず「どこにあるのか」を調べてみました。
諏訪史談会『諏訪史蹟要項ちの市編』では、踏査順路図にある「永明寺跡」に並んで「諏訪頼雄之墓」が書いてあり、〔永明寺墓地〕とある図録には「正眼院殿風庵躰宗大居士」とある墓石の絵(左図)がありました。また、ちの町史刊行会『ちの町史』の〔上原城下町図〕にも、こちらは千鹿頭神社の裏ですが、「諏訪頼雄墓」がありました。
ここで「碑」は「墓」であることが確定しましたが、藩主の弟の墓が「諏訪家の菩提寺ではなく、なぜ(一人だけ)ここに…」という疑問が浮上しました。
やはり、千鹿頭墓地にあるという現物を自分の目で確認するしかありません。しかし、不審者と見られてもおかしくないほど目を光らせますが、…見つかりません。
今回は縁が無かったとして諦め、千鹿頭墓地の中にある一つの小道を通って帰ることにしました。
ところが、違和感のある石碑に気が付き、読むと「諏訪頼雄公埋葬之地」でした。探す目安としていたのが「正眼院」の文字と「笠を乗せた古びた墓石の“絵”」でしたから、見つからなかったのも無理はありません。「ついに発見した」という高揚感が落ち着いた時点で、碑名の上に、本来は初めに目に留まるべき諏訪梶の家紋があることに気が付きました。
表には「墓石は昭和四十三年七月頼岳寺二之丸家墓地へ遷す」と刻まれ、裏には、
とあり、「平成十三年…」の建立年が確認できました。墓石は、昭和43年にはすでに頼岳寺へ遷っていたことがわかりました。
史料と現実との余りのギャップに巻末を確認すると、『史蹟要項』は昭和29年の発刊ですからやむを得ないとしても、『ちの町史』は平成7年です。しかし、関係者が町史の編纂者に連絡する義務はありません。それより、平成の世では「すでに忘れられた存在だった」ということでしょう。
『旧蹟年代記』の別項に、以下の記述を見つけました。「宮田渡様にて…」とあるので、幕末までは大祝家が管理していたことになります。
二之丸家は、六代藩主忠厚の時に「二之丸騒動」で失脚しました。当主の諏訪大助が切腹するなど重い処分を受けたので、先祖の墓であっても世を憚(はばか)って放置されていたのかもしれません。見かねた大祝が墓の掃除を細々と続けてきた、と想像してみました。
“うらうらと照れる春日に”といっても、諏訪ではまだ冬の終わりと言った今日です。それでも汗ばむほど陽光を浴びながら、旧甲州街道を伝って、頼岳寺へ寄ってみました。
木漏れ日がわずかに届く二之丸家の墓域前に立つと、上壇左端に“挿絵と同じ石塔”がありました。『史蹟要項』ではすべての銘文を記録してあるので、下からお参りするだけにしました。
左方にある「諏訪氏廟所」は両親と兄の廟ですから、遺言であっても、これでよかったのかもしれません。因みに、二代藩主以降の墓は、諏訪市の温泉寺にあります。