「…今日は茅野市高部薬師堂の例祭日ということで行きました。目的は蚕玉様です。ところが人気が無いので守矢史料館で聞きましたところ、例祭日は明日とのこと…」とメールを頂きました。「高部の薬師堂」なら、あそこしかありません。
実は、守矢史料館の隣にある薬師堂が「神長官と繋がりがある」ことを知って以来、何かと気になっていました。しかし、民家の半分が御堂という造りで、しかも常時閉ざされています。人目が気になる場所なので大祝廟から見下ろすだけで終わっていましたが、今日は例祭日ということですから、本尊の拝観が可能になります。しかし、メールをチェックしたのが一日経っての2時過ぎでしたから、「まだ間に合うか」と焦りながら高部へ向かいました。
守矢史料館の館長から、「裏の道を…」と教わりました。見回して見下ろして、境内に直接降りるような踏み跡の下に段状の物が“設置”してあるのを見つけました。近道というか直路(すぐじ)というか、それに足を掛けて降り、蔵の前を廻ると、大戸を取り払った薬師堂が現れました。
蔵の前にあった「薬師堂」の案内板です。
「すいえんもその名高部の観世音
とうかくむくにいたらしめなん」
信心講
の詠がある。(詠→御詠歌?) 薬師堂へは、急ぎながらも、ナフコの駐車場に車を置き徒歩で来ました。その道中で、珍しく高部公民館の玄関戸が開け放たれていたので、座卓を挟んで向き合っている姿を見ていました。これを読んで、中は飲み食いの最中であったと理解したのは言うまでもありません。今でも、メインディッシュは“チャーハン”でしょうか。
これは自宅で読み直しての話ですが、御詠歌の「すいえん」は高部の「高」に引っ掛けた水煙とわかりましたが、「とうかくむく」はわからず仕舞いでした。その後、田中積水著『諏訪郡霊場百番札所詠歌道記』で、「等覚無垢に至らしめなん」とわかりました。「これは手抜きの案内板」と指摘しても、今のところ設置者が不明です。
上写真では左端から「L」字に降りましたから、この写真では撮影者の背後にある正規の参道をまず確認しました。「ここに出るのか(ここから入るのか)」という、時々通る「薬師堂通り」でした。
開け放たれた堂内にいた接待役というか留守番の女性に、拝観時間は4時までと聞き、撮影の許可を得てから何枚か撮りました。
壁紙が、歴史を感じる色に染まっています(金箔ではありません。念のため)。一部が剥がれた裏張りに文字が見えます。「何か重要な新発見が」と期待して写真に収めました(が、意味不明でした)。
中央右の黒い厨子内に安置されているのが、左の薬師如来です。他に種々多様な像が並んでいますが、『高部の文化財』に詳細が載っているので、ここでの説明は省きました。
端に置かれていますが、見応えがあるのがこの鉄塔です。「保元(1156〜)」と読んで、これは“知られざる国宝”ではないかと驚きましたが、カメラのファインダーに明るく浮かんだのは「寛保元辛酉年」でした。
説明は、『高部の文化財』にある〔亀乗御鉄塔の普賢菩薩像〕にお任せしました。「見事な鋳造製の亀乗御鉄塔があり、内には乾漆で金色に輝く普賢菩薩像が安置されている。塔の高さは一・三m、横六四cmで、亀は激しい顔立ちをしている。甲羅の上に御鉄塔が乗っている。そして更にその上に普賢菩薩像があって、堂々たる仏の構え像である。御鉄塔の作は名工だろう。鋳物師小嶋紀友作寛保元年(一七四一)との印がある。(後略)」
過去に何回か、畑の縁に当たる左下の緑地から、荒れ果てた薬師堂と石仏を見下ろしてきました。
今日は、そこから、きれいに清掃された御堂と境内を見返りながら帰途につきました。写っていませんが、左方が大祝廟です。
薬師堂と繋がった建物は、公民館ができるまで使われた高部の集会所でした。また、蔵は高部の「郷蔵」と、後の調べで知りました。
高部歴史編纂委員会編『続 高部の文化財』から、〔仏教との関係〕を転載しました。
『高部の文化財』の〔薬師堂・薬師如来〕から抜粋しました。
〔伝統の祭り〕から、[焼き飯祭り]の一部です。
「鋳物→小嶋」に引っ掛かりがあります。自サイトを調べると、南真志野にある秋葉神社の鐘に「鋳工 小嶋郡良」がありました。「鋳物師 小嶋」で検索すると、ネット上では両者とも消息が知れませんが、サイト『公益の財団法人八十二文化財団』の〔信州の文化財〕に、南佐久郡小海町指定有形文化財「梵鐘」として、以下の解説がありました。
「鍋」から思いついて『諏訪郡諸村並舊蹟年代記』を読み直すと、
一、清水町大鍋屋小嶋佐市カ 延宝元年(〜)安政三迄百八十三年御殿様にて御用有之(これあり)。上田町より御呼寄せ御用済候所、次男に而も有之哉、此方に居る、又上田町大鍋屋弘治元年安政三年迄三百年程下野国佐野と云所より来候由、
とあり、(諏訪市)清水町に屋号「大鍋屋」の鋳物師がいたことがわかりました。名前が佐市カなので、彼の次男を中心とした一派が諏訪での鋳物を一手に引き受けていたことが窺われました。