『諏訪藩主手元絵図』に道祖神が載るのは珍しいのですが、「うとう坂道」の左に道陸神(どうろくじん)が読めます。横内村からは旧甲州街道が境となる旧塚原村への道なので、村境を守る“重要な道祖神”であったのかもしれません。
「うとう坂」です。標識の通り、徒歩でしか通れません。
初めは絵図にあるように、うとう坂の左側を探したのですが、住宅地です。庭先や家々の間を覗き込むことはできませんから、下蟹河原から回り込んでみました。しかし、それらしきものは確認できません。
結局は、絵図の誤記か移転したのかは不明ですが、写真の白枠内にある道祖神が絵図に書かれた道陸神と断定しました。
断層崖に貼り付いたテラス状の空き地は、余所者では民家の玄関前とも見えますから、レンズの先を道陸神に向け続けることに徹しました。
その道陸神(以降は道祖神)は、横口式石室のような切石の中に収まっています。当初からこの形態であったかはわかりませんが、道祖神の覆屋としてはかなり珍しい部類でしょう。
高さは約50cmと見た双体像はかなり摩滅していますから、かつては露座であった可能性があります。また、この状態ですから、銘は確認できません。
因みに、左の菜の花は(多分)固有種の「横内菜(よこうちな)」です。右方が上蟹河原ですから、種が何らかの伝(つて)で運ばれ、この前で育ったのでしょう。手向けの生花のようにも見えるので、しばし眺めてしまいました。
道祖神を右に見て、断層崖の高低差約10mを上(登)るのが、「唄坂」の別称があるうとう坂です。
旧横内村(諏訪藩主手元絵図)では、この左右にも同様な道がありますが、何れも勾配を緩くした斜めの道です。うとう坂だけが直登の急坂ゆえに車道化できず、かつての人と牛馬が往来した道がそのままの景観として今に残っているのでしょう。
「うとう」の名称は、塩尻市と辰野町の間に「善知鳥(うとう)峠」があり、「うとう坂」についても全国的には決して珍しい名前ではありません。
その謂われを幾つか読むと、「唄坂」では「余りにも暗く淋しい道なので、歌を唄いながら通った」が見られます。絵図では周囲を林として描いているので、これが当てはまりますが…。
(孫引用ですが)東京堂出版
『地名用語語源辞典』では、【うとう】に「ウトに同じ。とくに〈狭く長い谷〉の例が多い」とあり、【ウト(うと)】では「河岸のえぐれてくぼんでいる所」「両側が高くて切り込んだ道」と書いています。現地の景観から、どうやら、後者が正解のようです。
坂を上りきれば、今は交通量が激減した旧国道20号線で、かつての甲州街道です。
その状況がわかった大道から振り返れば、達屋酢蔵神社の杜が眼下に見通せます。ただし、視線を元に戻しても前は家が通せんぼしているT字路です。
右手を窺えば、うとう坂道からは鍵の手とも言えるクランク状(┯┷)に交差する道があります。
地図で、その先は大年神社を経て旧矢ヶ崎村の御座石神社へ通じる道とわかっていますが、実際にこの道に立ってみれば、城下町や宿場町でないこの場所が普通の十字路でないのが不思議です。
「このズレは、茅野断層が人間の記憶に残らないほどの微量で横方向に動き続けたことが原因と考えれば、道祖神が現在位置にあることも説明がつく」と、また妄想が…。
知らせてくれる人があり、北原昭著『諏訪の道祖神』を開きました。〔山浦(茅野市と原村)の道祖神〕には
とあり、紀銘「庚辰」から造立を「元禄拾三年(1700)あるいは文正拾三年(1820)ではないかとしています。ここでは、摩滅の具合と『諏訪藩主手元絵図』の編纂年「享保18年(1733)」から、元禄13年に作られたとしました。また、再設置の際に、目に付きやすい現在地へ移したと考えてみました。