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天龍石(力石) 諏訪市神宮寺 2003.10.5

天龍石 本宮境内の人混みから逃がれるように一之鳥居をくぐると、御柱で囲われた水神とその水槽が現れます。
 左の山際に目を転じると大国主命を祭る社が見えますが、ここでは関係ないので視線を下げると、石造物がひっそりとまとまった一画があります。その中の一つが、125×60センチとある「天龍石」です。


 『中洲村史』は、「天龍石の(名称の)意味は不明」としていますが、以下のように書いています。

江戸元祖土橋久太郎之を持つ、目方150貫(562.5Kg)米三俵石上に載せる。天保6年6月10日当所若者中
 中洲公民館刊『中洲村史』

 「天龍石」は、神宮寺の若者中が、この石を持ち上げた土橋久太郎を讃えた記念碑とわかります。しかし、どう見ても500Kgを超すとは思えません。単に由来を刻んだ説明用の石で、かつてはその脇に「天龍石」があったと考えましたが、「これを持つ」とありますから…。

 サイト『坪田敦HOMEPAGE』内にある《摂陽奇観巻之五十一》に、文政九年の項があります。ここに「江戸力持男 去酉年流行致シ評判有之候石持土橋久太郎一座金比羅へ参詣致候帰路ニ御暇乞致度旨ニ而興行有之候へ共格別ニ不入」とありました。古文書は全く不得意ですが、「石持土橋久太郎一座」から、天保の頃には今でいう「重量挙げ」が興業として成り立っていたようです。

 東京新橋の烏森神社の境内には「五十貫余」と彫られた力石があり、寄進者の中に「土橋久太郎」の名が見られるそうです。こうなると、150貫は50貫の間違いである可能性が出てきました。
 それでも、50貫(188Kg)は想像の範囲を越えます。さらに一俵60kgとして180Kgのプラスですから、どんな体格をしていたのでしょうか。

 天龍石の重さを計算してみました。125×60*30cmに石の比重2.65を掛けると、「143.1Kg」と出ました。これは直方体の場合ですから、実重量は110Kg程度でしょう。これで、あくまでここでの話として「目方50貫米三俵石上に載せる」と『中洲村史』を訂正してみました。

 四日市大学健康科学研究室『力石』のページには

「力石の石銘」 力石に切付けられている文字から、石の重量から、石の形状から、人名から、設置場所から、伝説から、石の産出場所から石銘が付くものは多々ある。

とあります。私は、本宮境内に「天竜(龍)川の源と云われる天竜水舎」があることから、それに因んだ名前を付けたとしました。

天龍石 後日に再び寄ってみると、御柱祭を控えた時期とあってか、除草、と言っても春先ですから枯れ草を除去してありました。
 前回は草に埋もれて気が付かなかったのですが、右脇に丸石があるのに気が付きました。中心に溝があり針金が巻いてあります。これで、また謎の石が増えてしまいました。