標題の「せいかん坂」については、芹ヶ沢誌編集委員会『芹ヶ沢誌』では「現在のように堀を堀って急坂をゆるやかな道にしたのは大正六年のことで…」とありますから、かつては今以上に急な坂道であったことがわかります。ただし、その名前の由来は書いてありません。塞神の地元の呼称「せい(の)かみ」であることは想像がつきますが…。
芹ヶ沢の子之社を参拝した折に、道祖神関係の書籍では定番という位置にある道祖神を訪ねてみました。誠にユニークな造形で、長らく気になっていました。
子之社から、国道299号であるその坂道を横切り、目前の高みへ誘(いざな)っているような小道に従います。
すぐに登りきりますが、自分が広大な台地の端に立っていることが何か不思議に思えます。距離としては短いのですが、渋川が浸食して造った高低差がそれだけ大きかったということでしょう。
台地の縁に沿うように進むと、灯籠と道祖神の覆屋が見えました。
一塊の石から削り出された、高さ約50センチの像を「お互いに正面切って見つめ合っている」と説明してみましたが、見た人の感性に任せた方がいいでしょう。
風化が進んだ結果なのか、元々の造作なのかはわかりませんが、その表情がつかみ取りにくいからです。男像は目鼻立ちがややハッキリしていますが、石質の違いから後世の補完と思われました。
前出の『芹ヶ沢誌』では「四つ辻町と渋川町の共有のもので、お地蔵様が二人向き合って坐ったようなものであり、特異な形をしているので見学に訪れる人が多い。左側の像の銘は延享三丙寅年十一月吉日と刻まれている(二対あった道祖神のうち一対は盗難にあい現在は一対しかない)」とあります。
一部重複しますが、北原昭著『諏訪の道祖神』から、〔山浦(茅野市と原村)の道祖神〕を転載しました。
写真の説明に「お地蔵様がお二人向かい合っているような丸彫りの異形道祖神。左側の像の銘延享三丙寅年十一月吉日(1746)」とあり、昭和46年の発行時には、二対の道祖神があったことがわかります。
茅野方面から県道を芹が沢へ入る所に、せいかん坂とよばれる坂かある。この坂の手前右手の小高い所に、特異な形の道祖神が二休祀られている。
高さ55cmと50cmという二つの露像だが、普通見る双立像とはちがっており、これは二人向き合って膝をつき合せて座っているという形の丸彫り像である。(写真57)
小さい方の像には、延享三丙寅年拾一月吉日(1746)と造立銘が刻まれている。大きい方は損傷の所が多く古い物のように見える。これには造立銘はない。この古いと思われる方の一人の顔は、人というよりは猿のような顔に彫ってある。猿の顔というわけは、猿田彦命にこの神様が関係あるせいなのだろうか。区の古文書に、
「村草創より辻に二尊を奉祀したが、天文(1532)・弘治(1555)の頃ここへ引奉祝と也といへ共実は其頃建立也、さいくわち坂へ引候は其後元和(1615)頃成由、石燈篭一本元文三戊午年霜月吉日(1738)建立、施主村中也発起人北沢作兵衛也、又道陸神延享三丙寅年十一月吉日(1746)奉建立…」
と記録されている。諏訪史談会『諏訪史蹟要項 北山村篇』の〔芹ヶ澤〕には、「辻の道祖神」として以下の記述がありました。
この火災については、『諏訪郡諸村並旧蹟年代記』に記述がありました。
小さな御堂が「火の番地蔵」です。『諏訪史蹟要項』は昭和29年の発刊なので、その当時はこの場所でドンド焼きができたと思われます。今は国道脇で火など焚くことはできませんから、別の場所で行っているのでしょう。
因みに、手前の道路が「せいかん坂」です。