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富嶽三十六景「信州諏訪湖(2)−富士浅間社− 2013.6.7 改

塩尻峠へ 2013.2.25

 国道20号の塩尻峠から、雪が溶けて凍結した道に難儀しながら「明治天皇御野立記念碑」を目指しました。右手に沿っていた尾根が低くなると、その先に現れた鞍部を、雪が覆っているので定かではありませんが一車線幅の道が横切っています。50年ぶりの再訪では景観についての記憶はまったくありませんが、道標「旧中山道」から塩尻峠であることがわかりました。

塩尻峠の浅間祠
←塩尻市↑富士浅間社岡谷市→

 今日は浅間社が目当てなので、その歴史ある道を左右に見てから尾根上の歩道を登ると、記念碑を挟んだ形で富士浅間社がありました。
 しかし、その石祠を前にしての諏訪湖への展望はありません。右から小尾根が張り出し、しかも木々が邪魔をしているからです。『木曾路名所図絵』では「此所原山にして樹木なし」とあるので、葉を落とした冬期なら少しは見えるかもしれないと期待したのですが…。結局、浅間社からはやや上部にある展望台へ向かいました。

展望台(富士浅間社)から富士山を見る

 展望台は冬期閉鎖だったので、その下から見下ろした諏訪湖です。

塩尻峠展望台から「諏訪湖と富士山」

富士山 雪を押してここまで来たのは、葛飾北斎の富嶽三十六景「信州 諏訪湖」と実景との比較ですが、富士山は南アルプスの北端である入笠山から派生した尾根の上に少し見えるだけで(左の拡大写真)、高島城も遥か左方の位置になっていました。
 もちろん、参考として書き入れた右端の「弁天島跡」から富士山が見えないのは当然のこととなります。

富嶽三十六景「諏訪湖」
文化庁『文化遺産オンライン』から、富嶽三十六景《信州諏訪湖》

 しかし、富士山と高島城・弁天島跡を除けば、諏訪湖を俯瞰するこの場所は「信州 諏訪湖」の“背景”として合格に値するでしょう。

富士浅間社

富士浅間祠 展望台から浅間社まで戻ります。基壇下に靴先を置くと大棟が私のアゴ下の高さですから、石造りとしては大型の祠でしょう。向拝柱や身舎(もや)の前面には多くの文字が彫られていますが、直に読み取れるものは「松本・施主・寛文八」とわずかなものでした。
 ところで、『木曽路名所図絵』では「木」の祠として描いています。あくまで「木祠」にこだわる私は、峠を挟んだ諏訪側にも浅間社がある可能性を思いました。見回すと、中山道を挟んだ下方に、ちょっとしたピークを持つ小山があります。ところが、林間に入ると防雪長靴でも膝まで潜ります。「二つの浅間社“発見”」の可能性もあるので、執念で、一足毎に踏み固めながらその頂部に立ちました。しかし、目の前には木々が立ちふさがり、諏訪湖の眺望は無理でした。
 足元を見渡すと、雪に埋もれた石の基壇があります。これが「諏訪側の浅間社跡」ではないかとボルテージが上がりました。念のために平石の上に積もった雪を靴底でこすり取ると、…文字が現れました。読むと「御嶽神社」です。倒れていた社号碑=神様を踏んづけてしまったと理解できましたから、平身低頭で謝りました。高揚感が背中の冷たさを感じるだけになれば、もう引き返すしかありません。(祟りで)滑って頭を打たないように慎重に下山しました。
 自宅で地図を調べると、その小山には1060.7mの三角点がありました。立木がなければ絶好の諏訪湖ビューポイントになるのですが…。

富士浅間社について

 長野県文化財保護協会『中山道信濃三六宿』から「塩尻宿」の一部を転載しました。

浅間神社
 諏訪・筑摩両郡境の西峠にあった建物を慶長十九年(1614)路線変更の際、塩尻峠(東峠)に移したと伝えられる。両郡境にあり境の宮ともいう。木造の祠を寛文八年に僧無染が石の祠に建て替え「柿沢金井講中無染施主」と刻まれている。
 『木曽路名所図会』に「此所より富士山向い合せなり、故に祠(浅間社)あり」と記されている。

浅間祠 これを読んで、浅間社は寛文8年(1668)から塩尻峠に鎮座していた石祠と知りました。こうなると、文中に出る『木曾路名所図絵』は文化2年(1805)発行ですから、浅間社は石祠で描かれていなければなりません。葛飾北斎が描いた木祠は浅間社ということで進めてきましたが、第二の浅間社も存在薄なので、ここで振り出しに戻ってしまいました。
 『図絵』が間違っているから“私の考えも違ってていい”という論理も働きますが、ひとまずはキーとなる年代を並べました。
 ・寛文8年(1668)─塩尻峠の浅間社を石祠で造立
 ・文化2年(1805)─『木曽路名所図絵』発刊(木祠)
 ・天保元年(1830)─富嶽三十六景「信州諏訪湖」発刊(木祠)
 ここまでを(強引に)まとめてみると、木祠の浅間社が確認できない今は、「『信州諏訪湖』は、塩尻峠から見下ろした諏訪湖に下諏訪から見た富士山と高島城を重ね、石造りの浅間社を木造に置き換えた構図」となります。

『岐蘇路安見』

「せんげんのとり井富士と向い合」

岐蘇路安見絵図
「富士此方ニ見える」

 宝暦6年(1756)出版の桑楊編『岐蘇路安見絵図』の下諏訪−塩尻間の絵図に、富士浅間社と諏訪湖の富士山が描いてあります()。浅間社には、『木曾路名所圖繪』とまったく同じ「浅間の鳥居富士と向い合」、富士山には「富士此方に見える」と説明があります。
 富士浅間社は「郡境」の“標識”を兼ねているので、移動することはあり得ません。何れも「鳥居」がキーワードのように思えるので、石祠から離れた位置で、富士山と相対する場所に鳥居があったことが考えられます。しかし、「富士浅間社−鳥居−富士山」のラインが「完結」する場所に祠を安置させたい、と思うのが人情でしょう。私は、(あくまで)第二の富士浅間社があったと主張したいのですが…。

木曽路之記

 貝原益軒著『木曽路之記』から「諏訪湖図」を転載しました。

木曽路之記

 右上に「塩尻峰の坂中程より見ざる村里」と説明があります。「右に寄った富士山が描かれているので、江戸時代の絵図では実景に一番近いでしょうか」と書いたところで、左下の書き込みが気になりました。拡大すると「塩尻よりの道」と読めます。そうなると、この絵は、峠から下る道中の展望ではなく、遥か頭上から見た鳥瞰図ということになります。試しに、その道から富士山に線を引くと、高島城を通過しました。

富士山と高島城ライン 富嶽三十六景「信州諏訪湖」が実景でないことが確認できたので、次は富士山の真下に高島城が位置する場所に興味が移ります。(よろしければ)以下のリンクで続きを御覧ください。