「応安の古碑」をネット検索して驚きました。多くのサイトとブログが、何であるのかわからないまま「応安の古碑が…」と紹介しています。
そのほとんどは「甲州街道」関係です。長大な街道を歩く人にとっては壊れた石造物など取るに足らない存在だと思いますが、地元としては大いに気になります。中には、一番目立つ「黒い碑」だけを見て「応安の古碑がある」と写真まで載せています(間違いではないのですが!?)。
白い円内が「応安の古碑」です。右の黒い石碑はただの“案内板”です。裏に説明が書いてありますが、「碑面が反射して実に読み辛い(全く読めない)」という苦言は別にしても、わざわざ裏まで足を運ぶ人はいないでしょう。それで、大きい文字の「応安の古碑」を横目で見て、「応安の古碑がある」となります。
これが「応安の古碑」のアップですが、碑ではなく石造物の残欠です。
それは別としても、正式名称は「富士見町指定有形文化財・応安の銘碑」ですから、“案内石碑”に「富士見町指定史跡・応安の古碑」と彫られているのは間違いとなります。なぜ、大金を掛けて“こんなことにしてしまった”のでしょうか。
私は、「重箱の隅が好きなんだなー」と言われようとも、さらに、名称は「富士見町指定有形文化財・応安の銘碑宝篋印塔残欠」とすべき、としました。「銘碑」ではないからです。
直方体に見えますが、片面にも正面の模様と同じものが一部残っているので、元々は正面側を一面とする正四角形であったと考えられています。不足分は、2枚もしくは3枚に分割して何かに転用したのでしょう。(私にはカボチャに見える)模様と上部にある段の形状から、宝篋印塔の基礎石と推定されています。
文字部分を拡大しました。次の「」内の文字を“ガイド”にすれば、「應安五」までは読み取れると思います。応安(應安)五年は、「南北朝時代」の北朝側が付けた元号です。下の二文字は干支で「壬子」。それに「年」が付いて“俗に言う”「応安の古碑」となります。
碑裏の説明にあるように、長野県諏訪郡内で年代の確認できる(年号が彫ってある)石造物では最古のものです。考えてもみてください。640年前の石造物が、残欠と言えど、寺社の境内ではなく路傍に残っているのは奇跡に近いと思いませんか。
応安の古碑は、街道を歩く人にとってはただの道標代わりかもしれません。それでも「何か気になる」と「振り返ってくれた方」の参考になればと、老婆心と言われるのを覚悟で一ページに加えました。