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小牧野遺跡と馬頭観世音碑 青森市野沢 2019.8.10

小牧野遺跡(こまきのいせき)

 (2008年と書いてもピンと来ないので)平成20年に、東北の諏訪神社を巡拝しました。その道中で国指定史跡を幾つか見学しましたが、小牧野遺跡の環状列石で、立石が馬頭観音碑に使われているのを見ました。
 令和元年の盛夏に来てそれを思い出し、小牧野遺跡の“珍しい石造物”として紹介することにしました。しかし、その碑が写っている写真だけが見つかりません。


小牧野遺跡の場所 

 他の案件で外付けハードディスクのフォルダーを順に開いていると、メモ用のフォルダーにあるのを見つけました。
 当時は、車中泊とあってバッテリーの充電ができず、デジカメとメモ用のビデオカメラ二台を使い分けていました。その中で、馬頭観音碑はメモ(覚え)として撮っていたことを思いだしました。

小牧野遺跡に馬頭観世音碑

 写真のタイムスタンプを確認すると、7月15日の7時45分です。東北自動車道の最終PAで宿泊し、当日の朝一番に小牧野遺跡を訪れていたことがよみがえってきました。ここであやふやな思い出話を書いても仕方ないので、写真をメインに紹介することにします。

小牧野遺跡

 サイト『国指定史跡 小牧野遺跡』から 〔馬頭観世音〕を転載しました。

 環状列石の第9号特殊組石の近くには、嘉永7年(1854年)の年号が刻まれた江戸時代末期の馬頭観世音碑が建っています。この場所一帯は、江戸時代から馬の放牧場として使用され、「小牧野」の地名はそのことに由来します。馬頭観世音碑は、元からその場所にあった環状列石の石を転用されたものと思われます。

小牧野遺跡の「馬頭観世音碑」 これが、ビデオカメラのフォトショットで撮っておいた写真です。今改めて思う「ストーンサークルの中に、なぜ馬頭観音が…」との疑問も、令和元年のネット上ですぐ手に入る情報(上文)を読んで納得しました。
 右/左に「嘉永七申寅/八月 願主新山久助」と彫られています。「その新山さんがどこのどのような人物か」より、諏訪人の特性で「これは御柱年」と反応してしまいました。場違いな賽銭箱ですが、(よくある)見学者が賽銭を碑上に供える(置く)ので設置した、と振り返ってみました。

小牧野遺跡「立石」 これが、環状列石のすべての根源となる立石です。ペトログラフのようなものが確認できますが、意味がなさそうなランダム配列とあって、“その後”についた何らかのキズとしました。それとも、…。


 「確かあったはず」と探せば、青森市教育委員会事務局 文化財課発行のリーフレット『小牧野遺跡』が出てきました。

小牧野遺跡「環状列石」

 「配布期間H19.3〜」とあるので、現行のものとは差異があるかもしれません。その中の写真〔環状列石〕を転載し、冒頭の全景写真を参照して馬頭観世音碑を書き入れてみました。

 帰路に、二度目となる(黒又山がメインの)大湯環状列石と、同じ列石がある伊勢堂岱(いせどうたい)遺跡を見学したことを思い出しました。ここで、再び遺跡巡礼への想いが熱くなってきましたが、確実にカウントダウンしている預金通帳の数字を見れば、…高揚した頭を冷やすしかありません。それにしても、道路地図で見つけた遺跡を道路地図だけでよく廻れたものと、今ながら感心しています。

「新山久助さーん」

 ダメ元で「新山久助」を検索すると、青森県埋蔵文化センター『研究紀要第19号・2014』に、今野沙貴子『弘前市相馬地区出土の経石について』がありました。
 その中の〔青森県の礫石経塚一覧〕から[納経塚(青森市高田)]を抜き書きしました。

紀年銘/嘉永6(1853)
銘文/奉納観世音菩薩納経塚 右往還 左入内道

備考/道の分岐点に所在。傍らに松もあり、道標の役割も果たしている。石碑背面に「野沢村領主新山久助」の名がある。伝説によ ると、この石碑はかつて旧豆坂道の地蔵堂傍にあったが、後に現在地に移された。納経塚になったのは現在地に移ってから で、津軽二十四番札所入内観音に関係するものとされる。


追分にある観世音菩薩納経塚碑

 一年違いの嘉永6年と小牧野遺跡の字「野沢」が旧野沢村と一致し、「野沢村領主(?)新山久助」が「願主新山久助」と同一人物であることが確定しました。
 さらに「青森市高田 豆坂道」で検索すると「追分(おいわけ)」があり、ストリートビューで走れば「奉納観世音菩薩納経塚」碑の画像も手に入りました。また、高田は旧高田村で野沢村の北隣とわかり、野沢村に続く追分に観世音菩薩碑を建立したことがわかりました。
 この一連の流れに、「ネットとはかくも面白きものかな」と、ついニンマリしてしまいました。