法華寺と吉良義周の墓 諏訪市神宮寺 2002.5.26
吉良義周公の墓と供養塔(右)
上社本宮の南鳥居前を流れる御手洗川を挟んで、諏訪神社上社の神宮寺で唯一現存する法華寺があります。その境内の山側に沿った道を巡ると、行き止まりに吉良義周の墓がありました。
ここにあるのが、吉良町が設置した“公式”案内板です。
吉良義周公に捧ぐ 義周
(よしちか)公未だ赦
(ゆる)されず。ひとり寂しくここに眠る。公は上杉綱憲
(吉良上野介長男)の第二子として生をうけ、五歳にして上野介嗣子
(あとつぎ)として吉良家の人となった。
名門の血を継ぎ、優れた才能を持ち、将来を期待された義周公に突然不幸が襲った。元禄事件である。世論に圧されて、いわれなき無念の罪を背負い、配流された先でつぎつぎに肉親の死を知り、悶々のうちに若き命を終えた。公よ、あなたは元禄事件最大の被害者であった。
しかし、ここに幽閉の二年有余、高島藩主忠虎公をはじめ藩の手厚いご対応、また当法華寺十一世春巌和尚の温かいご配慮に、われら吉良町民はせめてもの慰みを覚えるのである。
公よ、安らかに眠り給え。
平成六年六月吉日
吉良町
「忠臣蔵」とは違い、吉良上野介が地元では名君で通っていて大変人気があることは以前から知っていました。今年は生誕三百年だそうで、吉良町のそれに関した祭りの幟(のぼり)が立っていました。
細野正夫・今井広亀著『中洲村史』から、「吉良義周の墓」を抜粋して紹介します。
藩の日記は、
一、申下刻(午後5時ごろ)左兵衛様(吉良義周)御死骸出す、法華寺にて御土葬に仕廻候、
一、十四日……左兵衛様御墓所へ御石塔自然石にて建てたき由、代金三両(左右田山吉)より法華寺へ遣わす、
などと見える。これが今日法華寺裏山にのこる義周の墓碑で、高さ一三三センチの自然石に
宝永三丙戌天
室燈院殿岱岳徹宗大居士
神儀 正月廿日
と刻まれている。世をはばかったとはいえ、名家吉良家の当主としてはまことに粗末きわまる碑である。
多くの悲劇を生んだ、この事件のきっかけとなった浅野内匠頭の短慮をどう評価してよいのか悩むところです。