Googleマップに表示する宇波刀(うわど)神社の投稿写真を見る中で、その存在を知りました。文字情報が無いので正体は不明ですが、私には「石棒と丸石」に見えます。
それとともに、かつて倭文(しずり)神社で見た「謎の環状列石」との類似性を思い出しました。
これが、平成21年に書いた参拝記の写真と文の一部です。「写真だけを見れば環状列石です。本殿の瑞垣内に見つけました。径約1.5mの石の配列には(中略)中心に据わった石に何か意味があるように見えますが、問うべく人の姿も無く、首を傾げるしかできません」
「両者の関連性を調べるべく」とは大げさですが、作物の収穫が終わった冬の畑で矢尻と土器(片)拾いに明け暮れた少年時代を持つ私です。人生の黄昏を迎えた今でも古代の遺物には心がときめきますから、好天続きの秋の一日を選んで両社を訪ねました。コロナとは無縁の場所ですから、何の心配もありません。
今日は快晴ですが、落ち葉に埋もれた日陰とあって寒々しい写真となりました。
これは、上写真では上側に当たる横方向から撮ったものですが、倒れた石を起こせば、正に小型ながら環状列石です。
改めて目に焼き付け、穂坂路(ほさかみち)をたどって北杜市へ向かいました。
「それ」は、宇波刀神社本殿の右方にありました。すでに、神社入り口の辻に道祖神がありましたから、その類では無さそうです。
もっと土俗的な信仰形態と思いますが、現時点では「私が強く興味を引かれる物」とするしかありません。
その前に立つと、丸石ではなく、縄文時代に使われた石皿とわかりました。そうなると、先ほどまでいた倭文神社のものは石皿とは言えませんが、凹んだ石として共通しています。
ここの石は、断定はできませんが、近代に加工された石造物ではない、いわゆる遺物です。博物館などで展示されているものと同等ですから、開墾や農作業などで掘り出されたものを当初から神社の境内に奉納したということでしょう。
それを囲むのは、石皿と対になる磨石(すりいし)にしては大きすぎるので、(くびれ部はありませんが)いわゆる石棒と呼ばれるものでしょう。石皿と違って、それらしく似ている石が混入している可能性もありますが、意図的に「陰と陽」をセットにしたのが想像できます。ただし、その数と並べ方に意味があるのかはわかりません。
地元の人に訊けば具体的な名称や祭祀名がわかるかと思いますが、このご時世では、チャイムを押してまで確認するには至りませんでした。
山梨県の道祖神は、丸石のみと、石祠の中に石棒を納めたり基台に石棒と丸石を置く形態がよく見られます。写真は宇波刀神社入り口の辻にある祠二棟の内の一つですが、石棒と丸石から道祖神となります。
これら小型の石棒は、道祖神信仰が一般的になった際に、加工して奉納するようになったと見て間違いありません。前述の祭祀形態とは立地から見ても明らかに異なるので、参考として紹介しました。
図書館に、明野村誌編纂委員会編『新装 明野村誌 石造物編』があります。石造物の分類を読み進めると、「道祖神」の項に、写真とキャプションのみの情報がありました。
今となっては(成り立ちを知る人もなく)「道祖神の素形」としか書くことができなかったのでしょう。