勤務先の岡谷市で車を購入した縁で、退職した今も(わざわざ)原村から岡谷の営業所へ出向いて点検を受けています。今回は車検なので、5時まで岡谷市内巡歩(暇つぶし)をすることにしました。しかし、何年間も恒例となっているので、これといった“目玉”がありません。初めて通る路地を選んで適当に右左折を繰り返していたら、柴宮(東堀正八幡宮)の杜が見えてきました。入口に案内絵地図があるのを知っていたので、「何かいい所が」とその前に立ちました。
残された時間と戻る距離を考慮して、旧中山道を西に向かって歩くことにしました。岡谷市内の中山道は、国道“上”ではないので、道は拡幅されていますが旧街道の面影がよく残っています。「今井番所跡」まで来ると、意識になかった足の疲労感を一歩毎に感じるようになりました。もう、塩尻峠の登り口です。
今回は、まったくの足任せという偶然の“出会い”だったので、(運命と言うには大げさですが)それを強調するために、長々とプロローグを書いてしまいました。
ここまで来たので、街道脇の案内板で見つけた「石船観音」に寄ることにしました。初めて見る(聞く)名前ですが「天の磐船(あめのいわふね)」を連想し、近くにある「大石」にも興味を引かれたので、下諏訪岡谷バイパスを見下ろす長大な歩道橋を渡ってみました。
人家がなくなると、これから峠越えという街道脇に石段の参道がありました。
何か怪しげな(後で知った)「御篭堂(おこもりどう)」内にある「馬頭観世音」額(写真中央)を見上げ、再び現れた石段を登り詰めると小さな御堂が正面に見えます。石碑や石仏を左右に見ながらその前に立ちました。
本堂は「石船観世音」を掲げています。御篭堂の「馬頭観世音」から本尊は馬頭観音とわかりますから、扉から下がっている一頭分の蹄鉄は納得できます。しかし、奉納されたワラジの存在が不思議に映ります。
レジ袋の中身もワラジであることを確認すると、整合性がないと“突っつきたくなる”私は、馬と人間の足との関連性を“経験と知識”の中に見つけようとしました。しかし、立ちつくすだけに終わりました。
本堂の横に廻ると松葉杖が奉納されています。新しいものがありますから、「足がよくなる観音様」として現在も信仰されていることがわかります。左側にも足首を固定できる子供用の靴が三足ありますから、短絡的な「馬」の先入観は棚上げにすることにしました。何かヒントが、と堂内の厨子を覗きますが、扉は閉まっていました。
本堂の上に山中へ続く道があるので、案内板にあった「大石」が「石船」のことではないかと登ってみました。
沢筋に沿って登り詰めると、木の根方に御柱に囲われた石の祠があります。それより上には水の流れが見えないので、二筋のうちで足元に近い右側の先をたどると、木の根元から“いきなり”といっても過言ではない量の水が流れ出ています。この時点では知らなかった「鳴沢清水」でした。
真夏なら「おー、冷たい」と言うところですが、水眼川(すいががわ)の水温を記憶している指先の代用温度計は13度と断定しました。茶碗が伏せてありますが、この上に除草剤を大量に使うゴルフ場がある可能性を思うと飲む気にはなれませんでした。
帰りは、石段とは異なる小道を選びました。降りきった道は中山道で、そこに案内柱がありました。
ここで、初めて石船観音の概要がわかりました。また、先ほどの水源から流れ出た沢が「鳴沢」と理解できました。鳴沢は『諏訪藩主手元絵図』の「今井村」に載っていましたから、絵図と案内柱の文字が一致しました。
左は、鳴沢から分流した(多分同名の)鳴沢です。
右の石が水盤ですから、塩尻峠方面から下ってくると、これが石船観音堂の御手洗となります。案内柱なので詳細は書かれていませんが、石段を往復していたら何もわからないまま帰ったことになります。草の色が不自然なのは、この季節では盛りを過ぎた緑と午後も遅い斜光の照り返しが原因です。
上写真では得体の知れないモノとして写っていますが、余りの出来映えにアップにして紹介することにしました。ただし、「龍」としか説明できません。
「夜見れば」と言っても夜間にこの場所を通るのは不審者しかいませんが、ギョッとすること請け合いです。いつ誰が設置したのかはわかりませんが、中山道を歩く現代の旅人は、これを見れば、一時ですが疲れを忘れるかもしれません。
案内柱に「船の形をした台石の上」とあるので、引き返して再び本堂内を覗き込みました。「石船の上に厨子がある」と予想したのですが、通常の設置なので、厨子の中に「石船に乗った観音像がある(のだろう)」としました。
足の怪我は未経験である私には、治療用の靴や松葉杖が余りにも“生々しく”見えました。接骨医や病院での治療しか思い浮かびませんから、現在でも仏頼みが行われていることに、霊験はともかく、この石船観音の詳細を知りたくなりました。約束の5時にはまだ余裕がありますから、帰りがけに岡谷市図書館へ寄ってみました。
今井区誌編纂委員会『今井区誌』に「石船観音」がありました。重複するので「本堂には石像二基が祀られている」とだけ紹介しますが、「明治末期頃の石船観音の登口」とある写真には、立っている三井浅次郎氏本人(後述)が写っていました。
また、先ほどまでいた境内ですが、全然気が付かなかった「境内に次のような記念碑が建立されている」とある碑文が載っていました。
次は「2 民話(説話)」の章から転載しました。
「実話」とありますが、石船観世音菩薩碑の内容とは異なっています。碑文では「祖母が母」になっており、「山辺温泉の湯治」も登場しません。試しに、ネットで松本市山辺の「御殿の湯」を表示させてみましたが「藩主の御殿湯」としか説明がありません。“付加価値”を高めるために創作したのでしょうか。
御殿の湯に“この霊験話”が残っていれば「石船観音と相互提携…」という話はさておいて、現在も観音総代会主催で例祭が行われ甘酒の接待をしているそうです。また、昭和48年から始まったマラソン大会が今でも盛んに行われていることを知りました。
因みに、文中に出てくる「大石」とは、高さ約二丈(約6m)とある「旧中山道の大石」のことでした。何の変哲もない固有名詞ですが、“怖い話”が伝えられているので、街道歩きを趣味にしている方は「夜はこの前を通ってはいけない」ことを忠告しておきます。
まったくの偶然で知り得た石船観音でした。今、石船観音から見下ろせば、(直接は見えませんが)中央自動車道長野線の「塩嶺トンネル」が口を開けています。