熱田神社で重要文化財の本殿を拝観した後、周辺を歩いてみました。その時に目に入ったのが、畦の斜面に置かれた石の集合体です。
12月初めという季節ですが、畦全体の草がきれいに刈られていました。その中で、この場所だけに、ボーリングのピンを太くしたような石棒にも見える石を中心に、自然石が囲っています。
私には何かの遺構のように映ったのですが、客観的には、あくまで、ただの・普通の・よく見る畦の斜面上に置かれた石の集まりでしょうか。それでも心残りがあり、写真を数枚撮って立ち去りました。
古写真をチェックする際に、熱田神社のサムネイルの中に見馴れぬものがあります。拡大して思い出したのが、9年前となる前掲の写真です。ここでリンクしたのが、山梨県の大宮神社で見た石棒です。同じ形状であることから、「あれは石棒の立石だったのでは」と思い直しました。
しかし、ネットの検索ではまったくヒットしません。単なる石の寄せ集めの可能性もありますが、検索ワードを幾つか替えると、長野県上伊那地方事務所/長谷村教育委員会編『石仏遺跡』が表示しました。
この遺跡発掘調査報告書をダウンロードすると、表紙がこの写真で、目次に「石仏遺跡石棒群」と書いています。
当(まさ)に大ヒットという快挙ですが、その喜びを抑えつつ、石仏遺跡で発掘した石の遺構をこの場所に再現展示したものと理解しました。しかし、案内板の類があった記憶がありません。
ところが、読み進めても、表紙に採用した写真であるのにも関わらず、それにはひと言も触れていません。「何かおかしいぞ」と口絵の一枚「石仏遺跡空撮」を見ると、畦にそれ(○内)が写っているのが確認できました。
ここで、下部が発掘区域ですから、その直近であっても発掘したものではないことが見えてきました。
〔発刊にあたって〕の一部に、「長谷村溝口石仏地区は…かつて段々畑を開田する際に多数の土器・石器が出土したことからこの地名が付けられて往昔宗教的な建物の存在をうかがわせていた箇所」とあります。
(部外者の挨拶文なので無理もありませんが)一応「土器や石器では、石仏の地名に結びつかない」とツッコミを入れてから本文に目を通すと、
とあります。これから、古くから存在したくびれのある胴太の石棒を頭と胴体に見立てて石仏としたことから、それが地名となったことが想像できます。これ以外に「石仏」には触れていませんから、「字(あざ)石仏」を遺跡名とし、縁の石仏を表紙に据えただけということがわかりました。
一方で、石仏が畦にあるのが解せません。〔第5章まとめ〕では「この地域は以前小さい田が集まった棚田であったものを大きな田に開田した箇所である」としていますから、その時に、現在地に組み直して置いたことが考えられます。いずれにしても、この場所には元禄以前よりこの景観があったことは間違いないようです。
発掘調査書が言うところの「石仏遺跡石棒群」は、“原”住所が特定できない今、つまり移築された「石棒群」という捉え方なので、史跡類の表示をするには至っていないと考えてみました。
しかし、南側から撮った写真には、不自然な出っ張りが写っています。小尾根先端の際(きわ)にも見えますから、この部分だけ太古からの地形が残っているように思えてきます。
溝口の歴史などまるでわかっていない中でたまたま目撃しただけですが、「石仏遺跡で暮らしていた人々の祭祀場」と断定してみました。何しろ、今でも“縄文少年”を捨てきれない自分ですから、「石棒」とくれば、直ぐに縄文時代に飛んで行ってしまいます。
上伊那誌編纂会『長野県 上伊那誌 歴史編』〔原始〕[縄文時代]に石棒の記述があり、景観(現状)を含めたすべての謎が氷解しました。
最後に、石棒を石仏に見立てたために道祖神や個人のコレクションにはならず、きれいに整備されて現在まで残ったとまとめてみました。