八ヶ岳原人Home / 雑記書留メニュー /

風穴と風穴山龍雲寺 2008.4.25

 断りがない限り、出典は諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』です。

風穴山龍雲寺 渡辺市太郎著『信濃宝鑑』に、『風穴山龍雲寺之景』がありますが、明治33年刊とあって風景と説明文に銅版画を用いています。
 その中に「風穴」の絵と説明があったので転載しました。

 当寺境内に一大風洞巌窟あり、巌口六尺方両側に天然の門扉厳然として相警(いまし)む、巌穴を入りて数歩にして方六尺余の平地あり、夫より西方に向い入りて十五歩にして方十五尺余の平地あり、之を空海駐錫(ちゅうしゃく)の遺址とす、常に微風を吹出するを以て山号を風穴山と称す、

 江戸時代の書物である小岩高右衛門著『諏方かのこ』に、「風穴」があります。

一、風洞 龍雲寺山に大なる洞あり。松明などともして入り見るに十四五間は行るゝ也。それより先は地底のかたへ穴ありて入りかた(難)し。石などを入れれば転落(ころびおつ)る音きこゆ。深さははかり知るべからず。所の童などは是より雲起こり風生すと云。蝙蝠(コウモリ)あまた籠(こもり)居る。風洞山は龍雲寺の山号也。

 寛政年間に書かれた著者不明の『諏訪誌』「諏方神事の部」では、以下のように書いています。

一、(前略) 春日部神は河内に逃れ伊勢津彦は大風を起こし信濃に隠れたり、伊勢津彦神洲羽に来て住すと云えり風神に祭って洲羽社に合わせ祭る、信濃は高地にて風気荒く稼穡(かしょく※農業)を損す、故に伊勢津彦を祭ってその災を鎮しむと云えり、昔風穴山に社を建てこれを祭る風祝と云うもの有りて其の祭りを行う、穴に蓋して祝詞し当年暴風を封じ籠(こめ)て農桑の豊沃を祈る、後に風間荘司と云うもの有り、これ風祝の事なり、風穴山は真志野村龍雲寺これなり、今に風穴とて存せり、昔風を封じこめたりし社なり、(後略)

風穴山龍雲寺

 習焼神社後方の中央自動車道沿いに、風穴山龍雲寺があります。隣の尾根先にある秋葉神社の「ミツバツツジ」を見てから、「龍雲寺の裏山」にある(らしい)風穴を目指します。散々歩き回りましたが、それは“中略”にして、山菜取りに向かう二人連れの女性から「今でも3mくらいは入れる。場所は龍雲寺で聞いた方が」と情報を得ました。しかし、“再びの自力本願”に頼った結果が“再び中略”となってしまったので、仏様にすがることにしました。

風穴山龍雲寺
背後の山が風穴山(28.6.25)

 腕時計を忘れたので現在時間がわかりません。昼時と思われますが、失礼を承知の上で龍雲寺の庫裏前に立ちました。
 年齢から住職夫人でしょうか。本人も行ったことがあるらしくていねいに説明してくれますが、こちらの不安気な顔を察したのでしょう。「こちらへ」と、庫裏内を素通りして反対側の山が見通せる駐車場側に案内してくれました。「あのカラマツの上…、緑の…、松が…」と説明してくれますが、その指先は、私には単なる木の集合体にしか見えません。何とかなると思い、深く頭を下げてから中央自動車道をくぐりました。

風穴

風穴 墓地の中にある「伊藤千代子顕彰碑」の碑文を読んでから、沢底を伝って登ります。
 “中略”とした、砂防用のネットで覆われた凹部の縁に再び出ました。今度は、道はありませんがその最上部まで登ってみました。さらに少し這い上がってから右にトラバースすると、前方に周囲と馴染まない岩の塊があります。「これしかない」と近づくと、岩に裂け目があり、これが「風穴」でした。何と、2時間前に通った道から100mと離れていませんでした。

風穴入口 長野県最北部の「秋山郷」で見た風穴では、吹き出す冷風でその周囲だけ高山帯の植物が繁っていました。ここでもそれを期待していましたが、のぞき込んでも、顔に当たるのは横から吹いてくる常温の風でした。
 滑って転んでも奈落の底に落ちる心配はありませんから、奥行きは3mと分かっているその裂け目に潜り込みました。落ち葉が堆積した先は、隙間はありますが空気の動きが感じられないので完全に土砂で埋まっているようです。

風穴内部 右方が、狭いながらもまだ奥まで通じているようです。その先の暗闇のさらに先を確かめようとして、ここで初めて懐中電灯を用意しなかったことに気が付きました。
 思い付いて、カメラのファインダーを覗きながらシャッターを半押しにしました。AF補助光の赤い光がボンヤリながら輪郭を浮かび上がらせています。フラッシュをセットし、手を一杯に伸ばして撮ったのがこの写真です。
 入口を遠景で撮ろうとカメラを向けると、松が一本あります。足元ばかり注視していたので気が付かなかったのですが、それが「龍雲寺で言っていた松」と思い当たりました。確かに特徴ある松ですが、木だらけの山中では…。
 それにしても道標も案内板も、途中からは道もありません。見つけてしまえば、幹に巻かれた赤テープとただの凹みとも思える踏み跡が、今でも訪れる人がいることを現していました。

風穴
風穴から里を見下ろす

 しかし、急斜面とあってか、期待していた祭祀跡は痕跡さえありません。「せめて石祠だけ、少し欲張って御柱もあれば」と密かに願っていましたが、“風を完全に封じ込めた”状態になってしまった現状では、それを祀る意義などないのでしょう。もっとも、直下で土砂崩落の防災工事が行われたことから、土壇などが残っていても流された可能性があります。

風穴・風神・風伯

 龍雲寺は山号が「風穴山」ですが、風の祝とは関係がない「寺」です。習焼神社も、「山焼き」や「野焼き」の記述はあっても「風」は一字もありません。ただ、異常な数の御社宮司の祠を目にしました。その存在がかつての事跡を僅かながら伝えている印なのでしょうか。
 嘉永年間に書かれた松澤義章『顯幽本記』に、風穴に関する項を見つけました。習焼神社と風穴の関連だけを抜き書きして要約してあります。

真志野にある野明(野焼)沢は、昔はのわき沢と言った。のわきは風の別称である野分で山の風穴に対応する名であるから、此の地に座す野別神は風伯(かぜのかみ)である。

 諏訪史談会『諏訪史蹟要項』に、「猫・犬・鶏が順々に追われてこの穴をくぐり抜け小坂観音の下に現れたという抜け穴伝説がある」と載っていました。これは、「まずニワトリを入れ、次いでネコ、イヌの順」としたほうが理に適っていると思いますが…。