私の古墳初体験は、小学校の遠足です。松本市の中山古墳群を見学したのですが、小学三年生であった私にも何か感ずるものがあったのでしょう。社会人になってお金と時間の両方が自由になると、各地の古墳を覗くようになりました…との回顧録を始めるつもりはありませんので、ご安心を。
各地に、「石のカラト」や「唐櫃山(からとやま)」の名が付いた古墳があります。「櫃(ひつ)」がどうして「と」になるのだろうと漠然とした疑問はありましたが、それはそれとしてこの歳まで来ました。
何年も前のことですが(調べたら2007年)、新聞のニュースで、岡谷市の唐櫃石(かろうといし)古墳の石室内にあるというヒカリゴケを知りました。毎年思い出しては忘れるというサイクルでしたが、今年は9月過ぎという季節ですが、長雨が続いたので、まだチャンスがあると見学を決行しました。
突然ですが、『ウィキペディア』から〔唐櫃〕を転載しました。
倭櫃に対し、4本または6本の脚のついた櫃は唐櫃(からびつ、かろうど、かろうと)といい、宝物・衣服・文書・武具などの内容物を湿気から守るために用いられてきた。
棺も唐櫃と呼ぶ。ただし本来は「屍櫃」の意味である(屍をカラと呼ぶ現代語例として「なきがら」などがある)。このことから、墓石下の遺骨を納める空間(納骨棺)を、「かろうと」から「カロート」というようになった。
市井の人が編集する“ペディア”なので、たまに“とんでもないこと”が書いてある『ウィキペディア』ですが、手軽に得られる情報として重宝しています。今回は、ネット辞書では見られない「棺も…」を読んで納得しました。
ネットの情報には、「経時で、現状にそぐわないものがある」ことは承知していました。しかし、今回は「標識があるのですぐわかる」にすっかり踊らされて、上の原小学校を左に見る道を、先にどん詰まりが見えるまで(上ってではなく)登ってしまいました。引き返して道を一つずらしましたが、結果は同じです。古墳が山際にあるとわかっていたので、その辺りを見回すと、遺跡などに立つ史跡の標柱が見えました。
ということで、11時過ぎに、ようやく岡谷市指定文化財「唐櫃石古墳」の前に立つことができました。この時間を狙ったのは、ヒカリコケは自身で発光するのではなく外光に反射する、とあったからです。開口部が南面ですから、お昼の時間帯が最適と判断しましたが…。
手前を広くして撮ったのは、周溝(しゅうこう)と、前庭部といっていいのか迷う“参道”とその入口にある大石が珍しい古墳だったからです。
中央自動車道ジャンクションの高架橋なら墳丘全体が入りますが、「やはり諏訪湖でしょう」ということで、墳丘の一部が入る諏訪湖を撮ってみました。開口部が湖に向かっているので、今は消えてしまった被葬者ですが、毎日諏訪湖を見下ろしていたことになります(正確には天井か…)。
石室の入口に鉄柵がありますが、羨道(せんどう)がないので、極端に腰をかがめることなく格子の間から写真を撮ることができます。
左の写真は、現地で見た明るさや色の記憶をもとに再現(レタッチ)したものです。このように、ヒカリゴケの存在を知らなければ「コケが生え、赤の彩色が残っている」という程度で終わるのが唐櫃石古墳です。
ヒカリゴケが“光っている”箇所を選んで何枚か撮りましたが、この一枚を「推薦」としました。
ズームアップして、暗い部分のみが撮影範囲になると、「これがヒカリゴケだ!!」という写真になります。石室の入口からは、人間の目ではこのような色に映りませんから、この写真を見て「私も行こう」と過度な期待を持つと、がっかりすることになります。
帰り際に、外光の反射で光るのなら、フラッシュを使ったらどうなるか、と試してみました。その中で、ベンガラが残っている石が写っているものを選びました。
朝日や夕日などでは赤っぽくなると想像できますが、南向きの開口部では暗すぎて難しいかもしれません。
ビクを下げた、私と同年配の男性が上がってきました。すぐ下が自宅だそうで、古墳に関する話を聞くことができました。
「すぐ下にある送電線の鉄塔は60mある」から「大北森林組合の不正」まで続いた四方山話も、お昼のチャイムが聞こえたことでようやく下火になりました。