長谷(はせ)の浦集落にある諏訪神社を参拝しました。その資料集めの中で、この地に「平家の里」の名称が付けられていることを知りました。
「平家の落人伝説」は長野県の各地にあります。ここも、その例に漏れず、三峰(みぶ)川沿いからは「あの山の中に生活の場がある」とは想像もできない山奥ですから、平家の落人が住み着いた話があっても不思議ではありません。
諏訪神社参拝の折に、浦集落への入口で「平家の里」の文字を見てから十日経ちました。「そろそろ」が「なるべく早く」になってしまったスタッドレスタイヤへの交換時期ですが、替える前にもう一度峠道を楽しもうと、平家の里行きを思い立ちました。ところが、当日は、杖突峠と有賀峠の山は双方とも夜半に降った雪で白くなっていました。しかし、予報・天候ともに上々なので、中央自動車道で迂回し、伊北ICから高遠を経由して長谷に向かいました。
今は古くからの住人が二、三軒という浦集落の中心には、公民館がありゴミステーションも設置されています。その広場は格好の駐車場ですが、駐車禁止の看板がありました。結局、路上駐車ができる場所も見つけられないまま再び諏訪神社まで来てしまいました。
短い区間ですが、全面がうっすらと凍結している下り坂があります。今日は念のためにビブラム底のトレッキングシューズを履いてきましたが、氷には歯が立たないので、少しでも滑りにくい場所を選んで足を運びます。一度だけ体勢を崩してヒヤッとしましたが、誰もいないことがわかっていても、つい周囲を見回してしまいました。
浦集落の中心辺りに、平氏の子孫と伝わる「小松氏先祖の墓」と書かれた道標があります。道中で洗濯物を干してある家がありましたから、余り身勝手なことはできません。廃屋であってもしげしげと覗き込むことは避けて、その先を目指しました。カーテンですべてが閉め切られていることから無住とわかる家屋の前に、木の柵がありました。
暗い林を背にしてその正面に立つと、極普通の石塔が一基だけありました。四面に戒名が彫られているそうですが、いずれも判読できません。伊那市教委が設置した「伊那市文化財(史跡)」とある案内板には、以下のように書いてありました。
宇佐八幡は、現在は諏訪神社に合祀されています。ここで、平家の里である浦村の旧村社がなぜ諏訪神社なのか、という疑問が生じました。しかし、墓石は黙したままで、代弁してくれる人もいません。
平家の里を証(あか)す唯一の「物」を見終われば、首筋や手先の寒さを感じるだけとなりました。あの凍結路をどうやって下ろうか、と早くも帰路の心配が先に立ち、早々に陽の下に戻りました。
最悪の事態を覚悟しながら、1速に入れたままで軽くブレーキを効かせながらソロソロと下りました。本文とは関係ありませんが、無事“下山”できたことを報告しておきます。
長野県『長野県町村誌』から〔長谷村〕を開くと、合併前の各旧村の項には、等しく「諏訪上下(※諏訪神社上社・下社)の社領たり」という記述がありました。その関係で、最も密接な八幡神ではなく諏訪神を祀るしかなかったのでしょう。その他、関係ある部分だけを以下に抜粋しました。
『長谷村誌』は、関連する文献として菅江真澄の名を挙げています。ここでは、信濃史料刊行会『新編信濃史料叢書』に収録された『すわの海』から「廿六日」を抜粋しました。菅江真澄が天明四年に書き留めた紀行文です。
浦にある諏訪神社の拝殿兼覆屋には、比較的大きな社が三棟並んでいます。中央が諏訪社ですが、左右何れが宇佐八幡社なのかはわかりません。
右側の社殿は彫刻が細部まであり、一部ですが彩色されています。扉などにも絵が描かれていますから、大きさでは譲るものの浦では一番重要な社殿であるとし、小松氏が先祖代々から祀ってきた八幡社と“比定”してみました。間違っていたら祭神に申し訳が立ちませんが…。