諏訪市四賀と茅野市渋沢小路にある休石の設置場所から、休石は他にもあるはずと一気にテンションが上がりました。四賀は諏訪市ですが、目の先(南)は茅野市上原です。中世では城下町でしたから、休石が設置されていてもおかしくない小路が幾つも並行しているからです。
この二例から、上原ではJR中央東線と各小路が交差した近辺にあると睨み、その場所を重点的に探すことにしました。
もう一人の自分がささやく「涼しくなってから」の声を却下して、基点とした葛井神社から炎天下の道を歩きます。上原史跡保存会が設置した「鍛冶小路」碑を見、坂道の左右に目を配りながら上ります。しかし、盆休みでしかも日曜の昼下がりとあって、開け放した玄関や窓からは、プライベートな話しが伝わってきます。暑さは我慢できますが、目をキョロキョロさせるには日時を誤ったことを悟りました。
鍛冶小路は、線路との交差は跨線橋になっています。その下に休石がある確率が高いのですが、降りる道はあっても私道の可能性があるので上から見下ろすだけにしました。
そのまま山浦道に突き当たり、次の「塔所小路」もただ下るだけという結果になりました。
目的とする播磨小路を目指して国道を歩けば、普段は車からザックを背負った街道歩きの人々を「ご苦労様です」と眺めてきましたが、今日は立場が逆です。信号待ちで止まった車列では、閉め切った窓の向こう側に「物好き」との表情が次々と読み取れますが、意外と風があり胸を張って歩くことができました。
「播磨小路」へ右折して少し歩くと、道に接した空き地の縁(へり)に石造物が二列並んでいます。持参した江戸時代の道路地図『復刻 諏訪藩主手元絵図』(諏訪史談会編)の〔上原村〕を参照すると、「西方堂」でした。
上原区が設置した「西方堂跡」の案内板です。
西方堂跡から踏切の手前に交差する道の左右に目を光らせると、電柱の根方に何かの石が見えました。
「もしかして」との期待を込めて草を払うと、文字が現れました。下が「石」と読めるので、上は「休」としたいのですが…。彫りが浅いので、自分の欲目でも確定できません。
裏に廻り、刈り残されて長く延びた草を踏み倒すと、小さな字ですが「休石」がハッキリ確認できました。「私の新発見」としては、久しぶりの快挙となりました。
今日は、自分の足で見つけた休石を紹介できました。しかし、実際に歩いてみると、公道と思える小道でも人家が迫っていれば、近づくのは勿論のこと、目を向けることさえも憚(はばか)られます。現実には恥ずかしくて無理ですが、「只今、休石を調査中」との桃太郎旗でも背負わなければ難しいと感じました。
石造物についてメールのやり取りをしている方から「線路を挟んだ反対側にも休石がある」と教えられました。
それからかなりの時間が経ってしまいましたが、今日という日付にその前に立つことができました。実は「対角線にある」と思い込んでいましたが、線路と線対称にある場所でした。
似た大きさと文字から、同規格とわかります。かつては、その二つが並んでいたか、対面していた可能性があります。しかし線路の直近ですから、その敷設で泣き別れになったことも考えられます。もっと言えば双方とも近在から移したことも考えられますが、それを言い始めれば切りが無いので…。
播磨小路を下ると、国道から先は「片羽通り」と名前が変わります。
その交差点をストリートビューで走ってみると、信号柱がある一角に、休石らしきものがあります。
宅地のコーナーに車による不法侵入防止と境石を兼ねて石を設置する場合がありますが、この一画は明らかに国または市の土地であることがわかります。やはり、道路の嵩上げで埋没した休石でしょうか。
ストリートビューには、国道などの主要道では過去のものを表示する機能があります。以前はどうなのかとクリックすると、「現在表示中の画像撮影日5月2012」が表示します。なぜか、初期表示で最古のものを公開していることになります。
この謎は「播磨小路または片羽通りから進入する場合」で、つまり旧来の画像しか無いのが理由と納得できました。
改めて最新版に切り替えると、その石が消えています。「エッ」と過去画像を確認すると、2017年12月までは存在していたことがわかります。
これは、つまずきなどの事故防止で撤去されたと想像できますが、これで休石かどうかの確認ができなくなりました。隣家に確認することも考えましたが、ただの石の可能性もあるので、チャイムを押すのは止めにしました。