以前、琴浦町にある八橋(やばせ)諏訪神社を参拝しました。自宅に戻ってから、小泉八雲・セツ夫妻が松江市から鳥取まで旅をしたときに、「花見潟墓地を人力車で駆け抜けるのに15分掛かった」という話を知りました。『怪談』を著した小泉八雲が選択したコースに、いかにも彼らしいと感じ入りました。9年前のことですが、それ以来花見潟墓地が気になっていました。
見学に先立ち、車で走って、ドライブレコーダーに記録しようと思い立ちました。ところが、車では袋小路の道とわかり、眠っている人にとっては迷惑な計画を思い留めることができました。
「夕日に染まる花見潟墓地」を計画していたのですが、この季節では2時間も待機することになります。この墓地を歩くことを最後にして、諏訪へ帰ることにしました。
駐車場から撮った墓地の全景です。広角では何を撮ったのかわからなくなったので、以下にGoogleマップの衛星写真を用意しました。[+]で拡大できますが、あくまで“学術的な興味”として観察してください。
駐車場にあった「海抜13m」に不安を覚えました。日本海だから津波の心配はまずないはずと見込んだのですが、山の人間とあって、ここから降りるのに一抹の不安も…。
右は、ハングルで書かれた案内板です。韓国ドラマ「アテナ 戦争の女神」のロケが花見潟墓地内で行われたことから、日本の聖地巡礼と同じで、韓国からも訪れるのでしょう。
花見潟墓地を歩き始めて、まず目に付いたのが琴浦町指定文化財「赤𥔎殿冢(あかさきどのつか)」です。しかし、先に銘文を撮ったので、正面を撮ることを忘れてしまいました。抜粋で「この石造記念碑は、文政三年(1820)に当時の赤崎番所役人佐桐金左右衛門が願主となり、地元の友三良が中心になって再建されたものであり、創建は不明である」のみを紹介しました。
どこであっても、神社があると、ついカメラを向けてしまいます。ここでは「背後に石塔が見える神社」ですから、迷わず撮ってみました。
気になって祠の周囲を回ってみましたが、神社名も祭神もわからずに終わりました。原初は「砂浜に神社がポツンと…」だったのが、浜に沿って伸びて(増えて)きた石塔に囲まれてしまったと想像してみました。
すでに墓地は終わりを告げています。その端で、一台の車に付かず離れずという一人の人物に不審なものを感じていたのですが、近づくと、サーフィンを楽しんで帰り支度をしていた若者でした。
墓地から旧街道へ戻る途中にあった、町指定保護文化財「河原地蔵尊」です。こちらの説明も「総高4.3m。建立は西誉求方(法名)という道信者が発願主となり、延享四年(1747)に建立されたが、作者は不明」と抜粋しました。
何か感じることがあって拡大すると、河原地蔵の右側にある宝珠を持った像の顔が…。かつては露天の安置所で、海水を含んだ風で浸食されたのが原因と思いますが、その時は気がつきませんでした。当日も、海岸から旧街道の家並みにかけて、海水のしぶきで煙霧のように霞んでいました。
実は、花見潟墓地を歩き切る時間を測っていたのですが、地元民に話しかけられて断念していました。その代わりとなる墓地の長さを地元では「350m」と謳っていますが、疑い深い私とあって地図上で測ってみると、…ほぼ同じでした。早足なら5分の距離ですから、(今となっては出所不明の情報)「人力車で15分」は誇大表現ということになります。しかし、明治24年という時代と敬愛する小泉先生のことですから、許しましょうか。
「明治の本なので著作権は切れているはず」とネットで探すと、『電子テキスト』に、田部隆次翻訳の小泉八雲著『日本海に沿って』がありました。関係する部分だけを抜粋しました。
「左手…・右手…」の対比が意味不明です。翻訳が不適切とも思ったのですが、左側の青い海と、右側の旧街道沿いに続く緑の木々(防風林)を表現したものと理解できました。墓地へ続く道は、その間にあったのでしょう。
Googleマップに、ストリートビューが用意されていました。時代は違いますが、人力車に乗った気分で…。
国土交通省『国土画像情報』に、米軍が11月22日に撮影した航空写真がありました。国道9号は、まだ建設されていないことがわかります。
立木の影が長く延びてハッキリしませんが、墓地の左方で縦貫する道の上部分は、まだ余裕があるように見えます。その後の多子化で分家が増え、徐々に延びていったのでしょうか。