『諏訪郡諸村並旧蹟年代記』に、〔一、上原村〕があります。関係する部分を転載しました。
この記述の原典と思われるものが、諏訪史談会『諏訪史蹟要項 茅野市ちの篇』にありました。『頼岳寺再建略事記』にある“問答”です。
高島藩主諏訪頼水(太守公様)が、永明寺の代わりに頼岳寺を建立したことがわかります。
障りがあるのか、両書とも、永明寺の炎上を「訳が有って」と濁しています。しかし、“現在では周知の歴史”ですから、今井広亀著『諏訪高島城』の〔代々の高島藩主〕から転載しました。
嫁ぎ先で起きたトラブルを父の高島藩主に告げ口したのが発端ですから、織田信長を彷彿とさせる頼水の性格が伝わってきます。しかし、父が開基し墓もある永明寺ですから、何か別の理由があって、これを好機として破却したのかもしれません。
私事(わたしごと)ですが、各史料を読んで、初めて永明寺が千鹿頭神社の東方に“あった”ことを知りました。実は、その名を冠する山や公園・遊歩道があるので、永明寺は“現役”の寺院とばかり思っていました。そこで、永明寺跡を自分の目で確認することにしました。
千鹿頭神社を参拝してから千鹿頭墓地を横切り、永明寺山遊歩道をオギノ方面へ歩きます。
すぐに「永明寺跡」とある石碑が現れ、この一帯に永明寺があったことがわかりました。
石碑脇の小道を登ると、墓地があり、古びた石垣で造成された平地が幾壇かありました。しかし、上原五山の一つである永明寺がここにあったとは、とうてい信じられるものではありませんでした。
茅野市高部にある神長官守矢史料館と大祝廟を通して眺めた、永明寺跡と頼岳寺です。