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「日本最古の道祖神」と沢底 上伊那郡辰野町沢底 2012.4.27

日本最古の道祖神

沢底の石造物群
永正二年の道祖神

 現地の案内板に「日本最古の道祖神」とあるので、そのまま標題に頂きました。一般的に言う「道祖神」は日本固有のものなので、「最古」だけでも通じますが、やはり「日本」を入れたほうがインパクトがあります。

沢底の道祖神 正確には“元号銘があるものでは”と冠が付くのですが、その「日本最古」と称している道祖神が、辰野町の沢底(さわそこ)にあります。その元号「永正2年(1505)」をいきなり挙げても当惑するだけと思われるので、歴史上の人物の中では(本人ではありませんが)最も身近な「永正7年に、織田信長の父が生まれた」を選んで補足としました。
 古すぎるモノには常に真贋論争が付きまといます。この双体道祖神も、その生まれた年を巡って詮索する動きが絶えません。しかし、渦中に巻き込まれている両人がその真相を明かすことはありませんから、改ざんの可能性があっても「永正の道祖神」と呼ぶしかありません。

…しかし、これは果たして永正二年に立てたものかどうか、昭和の初年に初めて注目されてから疑問をもたれているが、この疑問はまだ解決されていない。腐食の様子を見ても年数は長いのに、その後に立てられた他の石像より鮮明であることなどから、古いのが腐食したので以前のと同じに彫り、年号も以前のままに彫ったのではないか、ともいわれている。
朝日村史編纂会『朝日村史』〔民間信仰〕

「入澤底中」の謎

 現地で、左側に彫られた「“入”澤底中」が気になりました。近くに「沢底入村ふれあいセンター」があったので、深く考えずに、「入」を小字(こあざ)「入村(いりむら)」に関連づけて終わらせました。
 ところが、帰り道で「日向」の道祖神を見て、「入村」なら「澤底入村中」になるはずと、再び割り切れぬ思いを持つことになりました。しかし、諏訪の住人では「山の彼方の空遠く、沢底の人が住む」土地ですから、その場で地理や歴史を知る術はありません。

沢底の春を行く

沢底の集落

 石造物群がある斜面の上部から、沢底の入口に当たる「赤羽」方面を撮ってみました。春の小川から伝わってきたカエルの鳴き声を紹介することはできませんが、これが「春爛漫の沢底」です。しかし、浮かれている私をよそに、すでに農作業は始まっていました。

有賀さんの家紋

有賀さんの家紋「立穀」
沢底の家紋「立穀」

 道祖神巡りの道中で、蔵に掲げられた家紋に注目しました。初めは単に“似ている”だけでしたが、格式がありそうな家構えの屋根に「立ち梶の葉」が確認できました(写真左下)。その気になって眺めると、同じ紋が鬼板や蔵に多く見られます。立ち梶の葉は諏訪大社の分社に多い「神紋」です。私の論理では、即、この里には「諏訪神社に縁(ゆかり)のある家が多い」と“ショート”してしまいました。
 昼時とあって、ようやく「沢底入村ふれあいセンター」の前で立ち話をしているおばあさんを見つけました。尋ねて「この辺りに多い有賀(あるが)さんの家紋」と教わりました。山の向こうは諏訪市「有賀」で、かつては諏訪氏の支族である有賀氏が治めていましたから「その末裔だろうか」とも思ってしまいました。
 不審者に見られたくないので表札をチラリと見る程度ですが、「この家も」と思うほど有賀さんが多いことがわかります。また、鎮大神社の玉垣にも有賀姓の寄進者が多く確認できました。

沢底の古名「させこ」

 「沢底」を地元のサイトで確認すると、「さわそこ」でした。私は今まで難読の「させこ」で通してきましたから、これは何かの間違いと思いました。ところが、公のサイトでも同様なので、「させこ」は中世諏訪の古文書で覚えた名称であったことに思い当たりました。今、地元の人に“これ”を持ち出しても時代錯誤と笑われるかもしれません。それとも、まったく通じない…。
 「させこ」は、諏訪神社上社(現諏訪大社上社)の祭礼の一つである神使御頭(しんしおんとう)に関係する「外県(とあがた)」に出る地名で、辰野町の「沢底」に比定されています。また、古くは「諏訪底」だったという説もありますが、何れも「諏訪側の呼び方」ということになります。
 以下は、辰野町誌編纂専門委員会『辰野町誌 歴史編』の〔中世の集落資料一覧〕から抜粋したものです。

 古い文献の中から沢底に関する地名を拾ってみると、
1)させこ──「諏方大明神画詞(権祝本)」延文元年(1356)
2)さそこ──「矢島文書」文明二年(1470)
3)沢底───「上諏訪造営帳」天正六年(1578)
4)佐瀬子──「守矢文書」天正年間(1573〜1592)
 などがあり、また、『赤羽記』には保科筑前守の所領として「諏方の界サソコ五百石」とあり、「市川文書」には、天正十八年十月十七日、飯田城主毛利秀頼が金山代官西尾喜右衛門尉へ知行の一部として「さそこ 四百八俵五斗」を与えたことが記されている。
 天正検地によって「佐そこ村」、正保四年(1647)の『信濃国絵図高辻』によってはじめて「赤羽村」と「沢底村」とになったこととなる。それでも、近世の古い文書では「させこ」や「さそこ」が散見される。(中略) いろいろならべて考えると、「させこ」あるいは「さそこ」が由緒ある古い名前かと思われる。

外県廻湛神事

 諏訪市史編纂委員会編『諏訪市史上巻』から「外県の廻湛(まわりたたえ)」を紹介します。大ナタを何回も“振った”抜粋なので、意味不明になっているかもしれません。

 外県の廻湛は、外諏訪ともいわれる伊那谷北部であり、(中略) (神使は)上社前宮の神殿館を出立し、大宮(諏訪大社上社本宮)を詣でて、諏訪湖の西街道を通り有賀峠に出る。伊那谷北部の平出に至り、(中略) 三日町前淵から長岡、赤羽と経て、山地に入り沢底で廻湛神事を終え、有賀峠に出て前宮神殿に帰着する。

 〔村名、廻湛神事巡路推定〕として、「沢底」が表に載っています。

沢底
山寺御社宮司
神主谷(字名ワゴ)御社宮司 鎮大神社合祀
日向御社宮司 鎮大神社合祀

沢底〜有賀峠は、神ノ洞峠・神道洞を経て鴻ノ田。覗石を経て有賀峠。

 三社ある御社宮司社の何れかで廻湛神事が行われたと推定しています。一方で、「入村」が当時も沢底の中心地であったとすれば、その附近で神事が行われた可能性もあります。

 道祖神の「永正」が事実で、その時代から現位置にあったとすれば、春秋の二回、幼い神使(おこう)が最後の神事を行った後、馬に揺られながら有賀峠へ向かった光景がこの前で見られたのかもしれません。

再び「入澤底中」

沢底の道祖神 碑文と現在の字(あざ)の違いを「入澤底→沢底入村」の変遷とするのは難しいので、沢底村のどこかに「入沢底」の集落があったと考えるほうがよさそうです。文字から追えば「沢底村の入口」でしょうか。
 朝日村史編纂会『朝日村史』に、「沢底」にある石神の分布に「鴻之田・岩花・入沢底・日向・神主谷」の分類がありました。これは集落名ですから、道祖神の「入澤底(中)」に矛盾がないことがわかりました。
 一方の「入村」ですが、現在の町制なら「辰野町沢底ふれあいセンター」とすべきですが、なぜか「沢底入村ふれあいセンター」を名乗っています。また、辰野町“直属”の施設ではないとも考えられるので、「入村」に何か特別の意味があるのかもしれません。そのため、「入澤底」と「沢底入村」を結び付けるのは意味がないとしました。

 結局、(私は決してヒマではありませんが)町民でもないのにあれこれと詮索した結果になりました。

入沢底は入沢底村

 宝永元年(1704)とある『静論裁許条々附大絵図』を見つけました。ここに、諏訪側に向かって、順に「下沢底村・沢底村・入沢底村」と書いてあります。これで、「入沢底(中)」が、かつての入沢底村と確定しました。
 このことから、入沢底村の成立時期が永正以前とわかれば「日本最古の道祖神」とする可能性は高くなります。