現地の案内板に「日本最古の道祖神」とあるので、そのまま標題に頂きました。一般的に言う「道祖神」は日本固有のものなので、「最古」だけでも通じますが、やはり「日本」を入れたほうがインパクトがあります。
正確には“元号銘があるものでは”と冠が付くのですが、その「日本最古」と称している道祖神が、辰野町の沢底(さわそこ)にあります。その元号「永正2年(1505)」をいきなり挙げても当惑するだけと思われるので、歴史上の人物の中では(本人ではありませんが)最も身近な「永正7年に、織田信長の父が生まれた」を選んで補足としました。
古すぎるモノには常に真贋論争が付きまといます。この双体道祖神も、その生まれた年を巡って詮索する動きが絶えません。しかし、渦中に巻き込まれている両人がその真相を明かすことはありませんから、改ざんの可能性があっても「永正の道祖神」と呼ぶしかありません。
現地で、左側に彫られた「“入”澤底中」が気になりました。近くに「沢底入村ふれあいセンター」があったので、深く考えずに、「入」を小字(こあざ)「入村(いりむら)」に関連づけて終わらせました。
ところが、帰り道で「日向」の道祖神を見て、「入村」なら「澤底入村中」になるはずと、再び割り切れぬ思いを持つことになりました。しかし、諏訪の住人では「山の彼方の空遠く、沢底の人が住む」土地ですから、その場で地理や歴史を知る術はありません。
石造物群がある斜面の上部から、沢底の入口に当たる「赤羽」方面を撮ってみました。春の小川から伝わってきたカエルの鳴き声を紹介することはできませんが、これが「春爛漫の沢底」です。しかし、浮かれている私をよそに、すでに農作業は始まっていました。
道祖神巡りの道中で、蔵に掲げられた家紋に注目しました。初めは単に“似ている”だけでしたが、格式がありそうな家構えの屋根に「立ち梶の葉」が確認できました(写真左下)。その気になって眺めると、同じ紋が鬼板や蔵に多く見られます。立ち梶の葉は諏訪大社の分社に多い「神紋」です。私の論理では、即、この里には「諏訪神社に縁(ゆかり)のある家が多い」と“ショート”してしまいました。
昼時とあって、ようやく「沢底入村ふれあいセンター」の前で立ち話をしているおばあさんを見つけました。尋ねて「この辺りに多い有賀(あるが)さんの家紋」と教わりました。山の向こうは諏訪市「有賀」で、かつては諏訪氏の支族である有賀氏が治めていましたから「その末裔だろうか」とも思ってしまいました。
不審者に見られたくないので表札をチラリと見る程度ですが、「この家も」と思うほど有賀さんが多いことがわかります。また、鎮大神社の玉垣にも有賀姓の寄進者が多く確認できました。
「沢底」を地元のサイトで確認すると、「さわそこ」でした。私は今まで難読の「させこ」で通してきましたから、これは何かの間違いと思いました。ところが、公のサイトでも同様なので、「させこ」は中世諏訪の古文書で覚えた名称であったことに思い当たりました。今、地元の人に“これ”を持ち出しても時代錯誤と笑われるかもしれません。それとも、まったく通じない…。
「させこ」は、諏訪神社上社(現諏訪大社上社)の祭礼の一つである神使御頭(しんしおんとう)に関係する「外県(とあがた)」に出る地名で、辰野町の「沢底」に比定されています。また、古くは「諏訪底」だったという説もありますが、何れも「諏訪側の呼び方」ということになります。
以下は、辰野町誌編纂専門委員会『辰野町誌 歴史編』の〔中世の集落資料一覧〕から抜粋したものです。
諏訪市史編纂委員会編『諏訪市史上巻』から「外県の廻湛(まわりたたえ)」を紹介します。大ナタを何回も“振った”抜粋なので、意味不明になっているかもしれません。
〔村名、廻湛神事巡路推定〕として、「沢底」が表に載っています。
沢底
山寺御社宮司
神主谷(字名ワゴ)御社宮司 鎮大神社合祀
日向御社宮司 鎮大神社合祀
沢底〜有賀峠は、神ノ洞峠・神道洞を経て鴻ノ田。覗石を経て有賀峠。
三社ある御社宮司社の何れかで廻湛神事が行われたと推定しています。一方で、「入村」が当時も沢底の中心地であったとすれば、その附近で神事が行われた可能性もあります。
道祖神の「永正」が事実で、その時代から現位置にあったとすれば、春秋の二回、幼い神使(おこう)が最後の神事を行った後、馬に揺られながら有賀峠へ向かった光景がこの前で見られたのかもしれません。
碑文と現在の字(あざ)の違いを「入澤底→沢底入村」の変遷とするのは難しいので、沢底村のどこかに「入沢底」の集落があったと考えるほうがよさそうです。文字から追えば「沢底村の入口」でしょうか。
朝日村史編纂会『朝日村史』に、「沢底」にある石神の分布に「鴻之田・岩花・入沢底・日向・神主谷」の分類がありました。これは集落名ですから、道祖神の「入澤底(中)」に矛盾がないことがわかりました。
一方の「入村」ですが、現在の町制なら「辰野町沢底ふれあいセンター」とすべきですが、なぜか「沢底入村ふれあいセンター」を名乗っています。また、辰野町“直属”の施設ではないとも考えられるので、「入村」に何か特別の意味があるのかもしれません。そのため、「入澤底」と「沢底入村」を結び付けるのは意味がないとしました。
結局、(私は決してヒマではありませんが)町民でもないのにあれこれと詮索した結果になりました。
宝永元年(1704)とある『静論裁許条々附大絵図』を見つけました。ここに、諏訪側に向かって、順に「下沢底村・沢底村・入沢底村」と書いてあります。これで、「入沢底(中)」が、かつての入沢底村と確定しました。
このことから、入沢底村の成立時期が永正以前とわかれば「日本最古の道祖神」とする可能性は高くなります。