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阿久遺跡の説明は、通常では目に触れない以下の二書から転載しました。一部[?]がありますが、そのママを載せました。
阿久遺跡の概要
阿久遺跡は縄文時代前期を通して営まれたムラと、個々の石のかたまりがドーナツ状に集まった環状集石群を発見し、石の数は10〜30万個と推定されます。この内側には墓坑がめぐり、中央の広場に立石・列石を持つ大規模な祭祀場が出現しました。
縄文時代前期の住居跡が63軒、倉庫と考えられる方形柱穴列13基が円周上に並び、中央にお墓などの穴がある環状集落が営まれた八ヶ岳西南麓の拠点的な集落です。
前期後半では、長さ120センチの角柱状の石を立てた立石とそこから直線的に並ぶ列石を中心に、その周りに墓坑群、さらに外側には直径120メートルにも及ぶ環状集石群が作られます。立石は火を受けた跡があり、火を使った祭祀が行われたようです。
阿久遺跡は縄文時代前期を通して人々の生活の場であり、住居が減少していくなかで居住の場から祭祀の場へと変遷していった過程や墓制、祭祀など縄文社会を考えるうえで重要な遺跡です。
阿久遺跡 柏木(かしわぎ)区西方の広い岡の上にあり、縄文前期の永い期間中には時代を追い顕著な変化・発達の段階がある。
特に阿久W期には中央広場の中心部に大規模の立石をもち、これから蓼科山方向に二列の列石が続き、これらを取り囲む長径約120m・短径約90m・幅約30mのドーナツ状の範囲に大規模の環状集石群が出土するなど極めて大規模の祭祀場が現出した。
さらにその下層からは馬蹄(ばてい)形に配列された住居址や、それに囲まれるように方形柱列群が発掘されるなど「従来の考古学的知見を覆すような遺構の発見が相次いだ・・云々」と当時の学会を驚かせたばかりでなく、これに匹敵するような縄文前期遺跡が未だに発見されていない。
この遺跡は新設の中央自動車道建設計画の敷地内に含まれていたので、同道の高井戸西宮線工事促進の圧力もあって消滅の危機に瀕していたが、「県考古学会を中心とする学術団体や住民による保存運動から全国規模の運動へと発展し・・」と、こうした遺跡保存運動の成果もあって昭和54年7月、国指定史跡となった。
現在中央道の敷地部分の遺構は砂で30cm以上埋め戻し、さらにその上に盛り土をして埋蔵保存の保護をし、中央道はつくられている。
昭和51年当時の航空写真に、中心となる立石の位置のみを表示させました。因みに、高速道路に掛からない西側部分は未発掘のままです。
発掘される28年前の航空写真です。このままでは「?」なので、中央自動車道と環状集石群の範囲を描き入れました。
阿久遺跡は二つの川に挟まれた尾根上にあることがわかります。ただし、「大早川」でなく南側を流れる阿久川から遺跡名が付けられた経緯は不明です。
冒頭の解説にある、「長さ120センチの角柱状の石を立てた立石とそこから直線的に並ぶ列石」です。日本道路公団名古屋建設局・長野県教育委員会『長野県中央道埋蔵文化財包蔵発掘調査報告書−原村 その5−』にある〔図版83〕の一部を転載しました。
中央道が開通して間もない頃から、阿久遺跡近辺の下り線で単独事故が多発しました。地元では「縄文人の祟り」が一般的で、中には「縄文人の子供が走り回る」との噂も流れました。
これは、分かってしまえば面白くも何ともない、遺跡保存のために盛り土をしてできた長い下り坂の先にあるカーブが原因でした。
上写真では前方に小さく写っている標識を側道から撮ったものです。この辺りから勾急配になっているのがよくわかります。
「下り坂注意」の大きな標識が二基設置されてからは事故が起きなくなりましたが、これで「縄文のロマン」が一つ消えました。