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御鉄塔納経の道「潜り戸口」 本宮境内

 出典によって、「鉄塔・御鉄塔」「大黒宮・大黒殿・大国神社」「神殿・宝殿」「如法堂・経堂」などの異称があります。 石製であっても鉄塔と呼ばれたので、ここでは「御鉄塔」で表記しています。

御鉄塔(石之御座多宝塔)

 諏訪神社上社本宮の聖域には「御鉄塔」がありましたが、寛永8年(1631)に石造りに替わりました。その後、廃仏毀釈によって境外に移転させられましたが、現在は諏訪市湯ノ脇にある温泉寺の多宝塔内に納められています。

諏訪神社上社御鉄塔 江戸初期作とされる『上社古図』には、その御鉄塔が描かれています。ここでは、神長官守矢史料館蔵『復元模写版 上社古図』を用意しました。
 絵図なので正確ではありませんが、「御鉄塔・経堂・大黒宮」の位置関係を頭に入れてください。

 以下の史料は、諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』から転載しました。

 「寛政頃(1789〜95)の人の記かと思わるる」と解説がある『諏方誌』に、今で言う「神居」に大般若経を納める記述があります。

一  (前略) 納経とて例年十月十六日神宮寺僧侶大般若経を書き写しめ神殿の後ろ石井の中に納む。書写の日一字三礼して覆面にて謹写す。浮圖(ふと※仏)氏の行法にて中頃よりこの儀を設く。尊神の冥福を弔するなりと云う。

 一方、「乾水坊素雪が文政二年(1819)撰述」とある『信濃国昔姿』の三箇所に、『諏方誌』と同じような「10月16日・納経」が見られます。

一 諏方宮本社拝殿
西向きにして東の方に向き唐戸より神陵を拝す。神陵の上に鉄の塔有り。(前略) 神陵鉄塔の内へは年々十月十六日辰(※朝8時)の一天法花(法華)経八巻書写を奉納し奉る。これ秘密山(※山号)如法院寺役の第一なり。

西向き…」は、祭神から見た西向きの社殿を、東側から拝す」ということか。

一 潜り戸口
大黒殿の後高塀東の角にこれ在る所は十月十六日朝奉納経の節明(開け)る也。これ鉄塔内陣の入口にて年内に一度明る斗(ばか)り也。鍵預かり茅野式部なり(宮田渡大祝明役小別当)。

一 経堂
出拝(早)の社より左の方の道を登る。凡そ十間斗りにして右の方に有る堂なり。此所にして春より十月迄法華を書写し、十月十日より経衆大勢にて法式有ること七日。十六日辰の一天奉納経有る也。此節十五日夜八つ(※2時)頃より御領主様御名代御出有り。寺社一統相詰めるなり。此朝貴賤群集し参詣多し。秘密山如法院預り所。

 両書には「石井の中・鉄塔」「大般若経・法華経」の違いがありますが、「10月16日に鉄塔に納経した」というのが骨子です。

潜り戸口と納経の道

 『信濃国昔姿』では、納経をするための入口を「大黒殿の後高塀東の角」と書いています。それを「潜り戸」としているので、鍵はあっても小さな扉という程度と思われます。

上宮諏方大明神繪圖 それを寛政4年(1792)の『上宮諏方大明神繪圖』に当てはめると、参拝者の目線では「左方向が東」ということになります。しかし、「大黒殿(大国主社)の後」を加味すると〔〕部になるので、「高塀の角」には当てはまりません。ここは、右の角〔〕とすべきでしょう。

高塀角 現在も、宝殿との間に十分な(それらしき)スペースがあります。
 かつては左方の塀に潜り戸があったと考えられますから、私は、そこへ通ずる露地を「納経の道跡」と(勝手に)命名してみました。