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「尊神の御在所」考 '18.7.25改訂版

 余りにも大きな主題なので、予告なく訂正・削除することがあります。出典は、断りがない限り諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』です。

本宮境内図 諏訪大社上社本宮にある「境内案内図」の一部です。本宮の中核となる幣拝殿の背後に密生した木が描かれ、その場所に「神居」と書いてあります。文字通りの「神が居る場所」と解釈していますが、古文献には見られないので最近の名称でしょうか。

『諏方大明神画詞』

 以下は、上社本宮の古態を説明する際に引用される『諏方大明神画詞』の一部です。ここに出る「上壇」が、現在の「神居」でしょう。

社頭の躰(体)三所の霊壇を構えたり、其の上壇は尊神の御在所、鳥居格子のみあり、其の前に香花の供養を備う、(中略) 中の壇には宝蔵・経所斗りなり、

 社壇は上・中・下で構成され、上壇に、鳥居と格子で囲われた尊神の御在所があると書いています。その前で「香華(こうげ)の供養」ですから、『画詞』では「御在所は墓所」として書いていることになります。

 中壇にあるのが今で言う宝殿と明治初頭まで存在した経堂で、「斗(ばか)り」から、御在所に次ぐ格式と位置付けできます。

『上社古図』

石之御座多宝塔
神長官守矢史料館蔵『復元模写版上社古図』(一部)

 江戸時代初期の社壇が説明できる『上社古図』です。
 『画詞』とは異なっていますが、尊神の御在所−石之御座多宝塔、香花の供養を備う−幣殿・拝殿、経堂−如法堂と置き換えることができます。

尊神の御在所

 『画詞』は僧侶の小坂円忠が編纂したので、仏式の表現になるのはやむを得ないと思っていました。しかし、江戸時代までの文献を眺めると「共通した本宮観」がある記述が多く、特に「石之御座多宝塔(御鉄塔)」に関した文に「本宮の役割」を見い出せます。それは、『画詞』そのままの「香華の供養を備う」世界です。
 以下に、『画詞』の時代から(本質には)何も変わっていないとする文献を幾つか挙げてみました。

『諏方上社物忌令之事』

 『画詞』より120年前の書物です。「原氏本に依り校合」とある『上社本』の中に、「仏教まみれ」と解説されるほど習合化された一文があります。

上段は石ノ御座多寶金塔・真言秘密あかたな(閼伽棚)、七千餘(余)巻ノ一切経、如法擁護十羅刹女(らせつにょ)妙典守護、中段は、御寶殿にははんにゃ(般若)守護(、?)十六善神并(ならびに)出正(出早?)明神垂跡給、

 「神長本」には諏訪七石の御座石を「石之御座と申す」と書いてあるので、「石ノ御座多寶金塔」は、御座石の上に設置した「多宝塔(俗称は御鉄塔)」でしょうか。また、次の「閼伽棚」が、『画詞』にある「香花の供養を備う」施設と思えます。

『年内神事次第旧記』

 『画詞』より約百年後に書かれた『年内神事次第旧記』を外すことはできませんが、本宮については「大宮へ御参有・御正面にて御手幣」などの記述で済ませています。この時代では神社としての主体はあくまで「前宮」であり、神仏が習合した本宮とは一線を引いているのでしょう。

『諏方誌』『信濃国昔姿』

 江戸時代に書かれた二書を挙げました。ここでは「弔う・神陵」と書いています。

 納経とて例年十月十六日神宮寺僧侶大般若経を書き写しめ神殿の後ろ石井の中に納む、書写の日一字三礼して覆面にて謹写す、浮圖(ふと※仏)氏の行法にて中頃よりこの儀を設く、尊神の冥福を弔するなりと云う、
著者不明『諏方誌』
 西向きにして東の方に向き唐戸より神陵を拝す、神陵の上に鉄の塔有り、(中略) 神陵鉄塔の内へは年々十月十六日辰の一天法華経八巻書写を奉納し奉る
乾水坊素雪『信濃国昔姿』

 この二書から、般若経・法華経の違いがありますが、書写した経典を納めるのが石井・鉄塔であることがわかります。この時代では石之御座多宝塔ですから、前書はそれ以前の形態を述べていると理解できます。
 因みに、web版『新纂 浄土宗大辞典』では「如法経:法式に従って清浄に書写された経典や、それを安置し埋納する供養をさす」とあるので、この経典を書写する施設が経堂(『画詞』では経所)で、如法堂の別称があることが頷けます。

尊神の御在所−尊神の陵

 ここまでで、本宮を「尊神の陵(みささぎ)」と考えてみると、違った(常識に捕らわれない)見方で諏訪神社上社の祭祀形態を捉えることができます。

神体山と磐座

 一方、本宮を所謂(いわゆる)「神社」として眺めると、「上壇」には本殿に相当するものが見当たりません。そのため、(たまたま)近くにある○○山や○○石が「神体」として担ぎ出されることになります。特に明治以降の研究書に(なぜか)多く登場するので、私には「生き神の大祝がいるのに、なぜ守屋山を持ち出すの」となってしまいます。
 さらに、本宮は“前宮以降”に造営されたと考えられますから、その時代に縄文時代の祭祀方法である「磐座」を持ち出してもチグハグなものになります。ところが、現在では逆に“絶好の位置にある硯石”が論議されるので「どうして石が出てくるの」と考えてしまいます。
 やはり、神体の大祝がいて、本宮には「建御名方命が眠る墓所があり」としたほうが無理がありません。

本宮は「尊神の陵」

 この標題として考えると、畿内に多い「天皇陵」を当てはめることができます。柵で囲われ、拝所には簡素な白丸太鳥居が建ち、祭神はそこに眠る天皇です。ただし、ここで言う「陵」は、奈良県橿原市にある「神武天皇陵」と同じ架空の墓所です。つまり、象徴として新しく造営された「建御名方命陵」ということになります。
 日本では、多くの人が、祭神が明治天皇であることを知らずに(恋愛や学問成就)で明治神宮を参拝していることは疑いないし、伊勢神宮も天皇の先祖を祭る「宗廟」です。これは、むしろ、日光東照宮の例を挙げると理解しやすいでしょうか。

諏訪神社上社「三神」の構成

 中世とは社殿配置も変わり人々の意識も移ろっていますが、江戸時代を例にとれば、神殿(ごうどの)−江戸・前宮−京都・本宮−日光東照宮となるでしょうか。
上社古図「部分」 「神である大祝は、宮田渡の神殿に住み、前宮で神事を行い、本宮の先祖を祭る」のが諏訪神社上社の「本来の姿」となります。このような「三位一体」と考えると、難しく(ややこしく)考えることなく、本宮の姿がハッキリ見えてきます。これで、上壇(神居)の基本的な姿は、幣拝殿の有る無しに関わらず中世から現在まで何も変わっていなかったことになります。

本宮の神事

 本宮で行われる代表的な神事が「蛙狩」です。諏訪明神が先住神を征服した姿を「カエルを射る(ヘビがカエルを平らげる)」という形で演出した(と理解できる)神事ですから、ミシャグジの祭りではありません。年頭に当たって、その故事を再現(再確認)することで先祖を讃えて墓前に手向けたと理解できます。また、本宮の祭祀は仏式が多いのも頷けます。
 一方、大祝の職位式(就任式)などの“ミシャグジ系”の重要な神事はすべて前宮で行われますが、終了後は本宮を表敬参拝します。これを持ち出すと笑われそうですが、式(旅行)後に「ご先祖様、私たち結婚しました」と墓前に報告するようなものでしょうか。

「神氏の祖霊を礼拝する対象が本宮」

 伊藤麟太朗著『新年内神事次第旧記釈義』があります。〔諏訪神社社殿考(三)〕の章から[宮地博士の上壇に対する見解]の一部を転載しました。伊藤さんが、宮地博士の“本音”を推測して書いた文ということになります。

 誠に博士の烱眼(けいがん)には敬服せざるを得ない。管見によれば本宮は平安朝初期(九世紀)前宮から分出したものである。前宮との連繋(れんけい)を求むるのは當然である。博士は神祇学の泰斗(たいと)ではあったが、當時内務省神社局考證(しょう)課長という官吏であった。この関係でズバリと物の言えない所があった様で、恐らく博士は前宮神原(ごうばら)を本殿とする即ち神(みわ)氏の祖霊を礼拝の対象にすると言いたかったであろう。斯様な点は随所に見られるがこれは博士の言葉のはしはし、文章の行間より推測するの外はない。

 これは「本宮の上壇」についての一文なので、宮地博士は「実は、神原が本殿で本宮(上壇)は祖霊を祭る場所」と考えていたことがわかります。ここで、本宮は先祖の墓所と考えた人がいたことになり、大いに力を得ました。

 前宮にも同様な位置付けをした“私考”があります。ここまで読んでくださった方はごく少数と思われますが、よろしければ以下のリンクで御覧ください。