Blog『払鉋!木製まな板復権と里山憂愁と棒道探求』〔石祠の建立年代を探る 峡北地域の形式の変遷〕にある「ネコの石造物」を見ました。諏訪神社ということもあって、参拝がてらにそのネコに会いに行きました。
駐車場が見当たらないので、畏れ多くも鳥居前に横付けとしました。降りて笠木が三段重ねという鳥居を見上げれば、目当ての灯籠(御神灯)は目の前です。
双方の灯籠の足が抱え込んでいるのが、目的の石造物です。「ネコはどこだ」と、その四方を順に確認すると右の灯籠で、参道に向く方向にありました。
「ネコがなぜここに」という素朴な疑問がありますが、頭を撫でても答えてくれません。
相方となる反対側は、ネコと対になる動物が思い浮かばないので、見た目通りの獅子としました。
こちらは、うずくまったネコと違い、頭を含めた体全体が圧縮されているように見えるので、梁などを支える邪鬼とも思えます。
これらの石造物は後から差し込むことは不可能なので、当初からこの部分に設置されていたことになります。残る三方にもこのような顔が覗けますが、写真はこの二枚のみとしました。
長野県では灯籠の中台に挟んだ獅子像の例があるので、そのバージョンの一つとも言えます。しかし、中台と足では、灯籠の部位として比較するのは無理があります。結局は、下笹尾諏訪神社の灯籠は極めて稀な造形と言うことにしました。
茅葺きをそのまま銅(鋼)板で覆った屋根を仰いでから、拝礼を済ませました。右方へ廻って現れた覆屋は、小さめのガラス窓に格子付きです。本殿の撮影は必須なのでカメラを掲げて貼り付いてみましたが、格子の狭さに早々に諦めました。
区切りが付いたので裏参道に見える右方の道をたどると、あっさりと先ほど通った大道に出ました。注連柱はありますが、何のための別参道なのか不思議でした。
「下笹尾なら、上笹尾があるはず」と地図を眺めれば、北方に字(あざ)「上笹尾」があります。その上・下の笹尾は、合併前の旧村であるのは間違いありません。そこで「上笹尾の鎮守社は何だろう」と、山梨県の地誌『甲斐国志』〔神社部〕を開いてみました。
上笹尾村については「瀧権現(現在の大滝神社)」の記述がありますが、鎮守社の扱いではありません。
今回の参拝記のために借りてあった『小淵沢町誌』で確認すると、
由緒 棟札によると、当社は初め現在地の東方わずか離れたところに社地があり、天神社などと倂祀してあったが、元文三年(1738)現在地に社殿を建立して遷祀したとみられる。この社殿建立は上笹尾・下笹尾の氏子が御普請で行い代官所から御普請金が下附された。大工は宮大工で名の高い下山村の大工がこれに当たった。
氏子 下笹尾全域及び上笹尾(除滝の前)二二〇戸
「上笹尾村と下笹尾村が共同で神社を建てた」「氏子は下笹尾全域及び上笹尾」とあり、諏訪神社は両村の鎮守社であると理解できました。
思い当たることがあるので現在の字界(あざかい)を調べると、神社の北東側に沿っている道が境であるのがわかります。
現地でその農道を見ていましたから、上笹尾の人々が村境を越えてすぐに参拝できるように参道を増設したと想像できます。
ここで、なぜ社地を100%下笹尾にしたのかという疑問が生じますが、『小淵沢町誌』は「初め現在地の東方わずか離れたところに社地があり」と書いていますから、原初は村境上にあったと考えました。
『小淵沢町誌』の裏表紙に絵図を使っていることに気が付きました。もしやと探せば、「北」に「上笹尾村境」が読めます。目次で確認すると、「見返しの絵図『下笹尾村』」とありますから、「氏神」が諏訪神社となりました。
右(東)に「神領・宮の前」がありますから、この辺りが旧社地であったと考えられます。
参道入口を撮らなかったので、『Googleマップ』のストリートビューを代用しました。
上笹尾側
左方の農道が字界で、旧村境となります。
下笹尾側
鳥居があり「上(笹尾)氏子中」の灯籠があるので、「上・下」を気にしているのは部外者の私だけということに…。