9年前のことですが、旧諏訪神社上社で行われた「御頭祭」を調べる中で、六車由美著『神、人を喰う』を手にしました。
〔人身御供と殺生罪業観〕の章では花巻市の諏訪神社にある供養塚の碑文を引用しています。「往古は三年に一度、生娘を犠として奉る習あれど、年を経て止む。郷中の者これを愁い、鹿を替わりとして奉る」というものですが、そもそも「諏訪大神が人間を喰うのか」という疑問がありますから、その塚を自分の目で確認したいとの思いがフツフツと…。
カーナビが、各地で「第◯地割(ちわり)」を表示します。岩手県では普通の地番らしく、葛諏訪神社は「葛第9地割345」でした。
郷土芸能伝承館が併設された諏訪神社でした。「葛神楽」の案内板があるので、奉納神楽が盛んということでしょう。左方の石碑『諏訪神社由緒』から、必要なものを抜粋しました。
唯一見られた神紋は、賽銭箱の「三つ巴」です。神紋というより、神社の創建に関わった有力者の家紋ということでしょう。
本殿は覆屋の中にあってぼんやりとしか見えませんが、目的が供養塚なので、その背後に向かいます。
暗い樹下とあって周囲と同色に撮れていますが、これが、私のこだわりで長野県から遙々確かめに来た「生娘と鹿の骨を埋めた」塚です。
その前に立つ石碑『供養塚の由来』をテキスト化してみました。氏子総代と宮司名があります。
確かに、「(諏訪大神に)生娘を犠として奉る」と読めます。本社である諏訪大社の氏子としては「諏訪大神は“そんな”神様ではない」と反発してしまいますが、さらに「(その風習がなくなったのを残念がって)鹿を替わりとして奉る」と続きます。
通常なら「そんな悲しいことが止んでよかったね」で終わりますから、鹿に代えたとしても、贄の供給を再開したことに奇異を感じます。これは、文字数の制約に加え「地元の人はわかっている」ことからくる説明不足と好意的に受取りましたが…。
帰り際に、社頭にある『宮野目散策案内図』を何気なく眺めると、近くに「諏訪御前社」があります。もうここに来ることはありませんから、後悔しないようにと参拝することにしました。
両社の位置関係を示すために、地理院『地図・空中写真閲覧サービス』からダウンロードした2011年9月撮影の写真です。
北上川がこの辺りを迂回するように東に蛇行している中で地形図の等高線を確認すると、集落が1mほどの差ですが高地に立地していることがわかります。
旧村の概要には「北上川は東に移った」とあるので、高低差がないこの一帯に川の名残の沼が幾つも残ったことが理解できます。
田圃の中にポツンとある神社を目指して、農道に乗り入れました。
御前社は方形の水路で区画されています。その写真を撮る中で、『諏訪神社由緒』に載る「今もある御前池」が、神社の前にある四角い池と気が付きました。
神社からは離れた大道の脇にある「宮野目コミュニティ会議・宮野目ふるさと会」設置の案内板です。
初めは諏訪神社と〔諏訪御前社〕を混同して読んでいましたが、諏訪神社の参道の入口に礼拝所を設けたのが御前社と理解できました。
次の〔伝説 御前沼〕ですが、こちらは「大蛇に、若い子女を生贄として供えて」と書いています。贄は大蛇に供したものとして(私が設定する)話のスジが通ったのですが、ここでも「村人はこれを憂い、鹿に祀り替え」と書いています。大蛇が代用食で満足したとは思えませんから、やはり、ここは、諏訪神社が一枚噛んで「こうなった」とするほうが自然です。
諏訪御前社が参拝できたのは大変ラッキーだったと言えますが、何かスッキリしないものを抱えながらこの地を後にすることになりました。
『神、人を喰う』では『邦内郷村志』を挙げています。『南部叢書』にあったので転載してみました。
何か「凄そう」に見えたので私流に読み下してみましたが、余り参考になりませんでした。
これも同書で引用している、『二郡見聞私記』にある〔諏訪のやしろ〕です。ここでは、『南部叢書 第九冊』から転載しました。
「御当国御手」が意味不明ですが、「大蛇の通路を焼き払い、沼端に諏訪神社を勧請した」と読めます。ここでは「その時から贄を鹿に代えた」とありますから、私の素直な解釈では、諏訪大明神を恐れた大蛇は鹿肉で我慢するようになったとなります。
ただし、総本社の諏訪神社上社(現 長野県諏訪大社)では、「鹿無くては、御神事はすべからず候」が鉄則です。葛の諏訪神社でも「それ」が伝わっていたとすれば、「その時から諏訪大明神へ鹿の贄を供することになった」とするのが本来の話になります。つまり、「大蛇への人間」と「諏訪大明神への鹿」が習合(混同)して、このような伝承になったと言えます。
前出の〔諏訪のやしろ〕では、大蛇を鎮めるために閉伊郡小槌村から諏訪大明神を勧請したと書いています。その本社が気になって「閉伊郡小槌村」を地図で検索すると、釜石市の北にある「(旧郷社)小槌神社」が表示しました。住所は上閉伊郡大槌町です。
次に、南部叢書刊行会『南部叢書』を眺めると、江戸時代の地誌『邦内郷村志』があります。苦労して〔閉伊郡大槌縣〕にある「小槌村」を見つけましたが、神社は「神明・小槌大明神」の二社しか載っていません。この小槌大明神が現在の小槌神社で間違いないのですが、祭神を始め諏訪色はまったくありません。
こうなると、諏訪神社は廃絶したか、葛村へ(分祀ではなく)移転したのかのどちらかになります。もっと言えば、『二郡見聞私記』の記述が間違っていた可能性があります。ただし、あくまで「見聞」なので、どうこう言えるものではありません。
離れた地の古い伝承に、長野県諏訪の道理でツッコミを入れた形となりましたが、どうでしょうか。