標題は「並立鳥居」ですが、現在は単立になっています。また、明治初期に多くの「諏訪」神社が「南方」と改称した(させられた)ので、時代によって呼称が異なります。
前例に倣って、旧湯之浦村鎮座から「湯之浦南方神社」と名づけました。
幕末の地誌『三国名勝図会』に「海蔵院」の絵図があり、その中に「並立鳥居」が描かれています。正しくは、並立鳥居が描かれた絵図を探して見つかったのが「海蔵院」だったということになりますが、それは置いて、その頃には二基並んだ鳥居があったことになります。
下図は、〔阿多(あた)郡 伊作(いさく)〕[仏寺]部にある、二頁に分割した「海蔵院」の左側です。
中央に二つの鳥居が描かれた「諏方社」を[神社]で探すと、この記述がありました。
諏訪神社 地頭館より卯方十二町余 湯之浦村海蔵院仁王門内正面、小牧山の山腹にあり。正祭七月廿八日。當社は梅岳君(※島津忠良)勧請し給ひしと、海蔵院由来記に見えたり。君加世田城を攻め給う時、誓願の故事として、正祭には流鏑馬ありしが今はなし。農民金皷を鳴らして踊をなす。
○稲荷大明神廟 当社の北傍に在り。梅岳君御勧請にて、初め伊作城の西域に安せられ、大中公(※島津貴久)の時、ここに移さる。いにしえより眷白狐の奇験ありといえり。
昨日は、傘を差しての参拝と撮影でした。しかし、自分の年を思えば最後になる鹿児島滞在ですから、快晴となった今日、改めてこの地に立ちました。ここへ来るまでに、いちき串木野市の諏訪神社をこなしたので朝9時の時間帯となり、普段撮ることができない光景をカメラに残すことができました。
日置市教育委員会が設置した案内板『島津日新公学問所跡』の前半部分です。
道の向こう側が、海蔵院跡です。どこが何なのか・何がどうなのかがわからないので、案内板と「海蔵院之跡」碑を中心にして撮ってみました。
背後の樹下には、案内板の続き「廃仏毀釈により散乱埋没していた五輪塔・宝篋印塔・月輪塔など70数基の石塔は近年復元整備されました」という「海蔵院墓石群」があります。
その一部ですが、雨中に撮ったものを一枚載せました。
海蔵院跡を右に見てさらに進むと、鳥居の向こうに、この光景が現れました。
「前日の雨が水蒸気となり、それを朝の斜光が照らしただけ」と説明できますが、この何とも神々しい出迎えに気を良くしました。
拝殿前の左右に随身(ずいしん)が設置されています。ここでは身舎内に随身を彫り込んだ形式ですが、風化が進み輪郭しかわかりません。
鹿児島では当たり前の光景ですが、何回見ても入母屋造(いりもやづくり)の祠には馴染めません。
拝殿と右奥に一部写っている本殿の覆屋ですが、最近新築されたもののように見えます。
拝殿前部には「諏訪梶」が染め抜かれた定紋幕があるので、諏訪神社であることが一目瞭然です。ただし、覆屋の扉が閉じられているので、本殿の様式は確認できませんでした。
冒頭の絵図「海蔵院」から、諏方社のみを切り取りました。因みに、左端の「稲荷」が、現在も赤い稲荷社として存在しているのがわかります。
まず、茅葺きに見える拝殿と並立鳥居の間にある石段の位置関係を頭に入れてください。
向きは違いますが、それに対応する写真です。現在は鳥居がありませんが、絵図の相対位置から、盛り上がった土壇の左右(矢印)に二基の鳥居が建っていたことが想像できます。(前日雨中の写真なので、色のトーンが異なっています)
拝殿前から見下ろすと、土壇の左右の凹みが、並立鳥居に合わせた二つの参道に当てはめることができます。「もしや」とその跡を探してみましたが、痕跡ですらありません。
参道脇には、廃棄せずに残された笠木や柱の部材が散見できます。そのことから、倒壊・破損を免れた(残った)鳥居を、現在位置に単立として移設したと考えてみました。
ここで、前日に参拝した中津野南方神社の並立鳥居を並べて見ました。ご覧のように、参道中央の高まりが酷似しています。
ここまで、今は「跡」となった並立鳥居にこだわってきました、しかし、圧倒的多数の参拝者は知らず、またそのことには無頓着でしょう。
Googleマップでは「一の鳥居」とあるその前に、石の仁王が立っています。鹿児島では多く見られるこの「仁王―鳥居」のセットを初めて見た時は「異様」と感じましたが、今は慣れて、「鹿児島の神社を象徴する景観」と紹介することができます。
鳥居の柱にある銘を読んでみると、「明治十年役従軍生還者一同」とあります。鹿児島県民には怒られそうですが、「明治十年役って何だろう」と調べれば、あの「西南戦争」でした。
鳥居は明治期に建てられたものとわかったので、前出の「海蔵院」に描かれた「仁王門」を参照してみました。
これを見る限り、幕末では門の左右に仁王だけがあったことになります。「鳥居を再建した」とは考えにくいので、前述の説明「鹿児島の神社…」はここでは当てはまらないことになりました。