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諏訪明神社と鎌八幡宮 和歌山県かつらぎ町 兄井

 近辺に同名の神社がないので、そのままの「諏訪明神社」で表記しました。
現在の字「兄井」は、古文献では「兄居」のものがあります。

 九州からの帰途、訳あって、奈良県五條市立図書館に寄る計画を立てました。そこに至るまでの主要道路を目で追う中、和歌山県に「神木におびただしい鎌が刺さっている」神社があることを思い出しました。改めて調べてわかった「鎌八幡宮」を地図に求めると、かつらぎ町に二社あります。
 道順では西にある鎌八幡宮を拡大すると、直近に「諏訪明神社」が表示したので両社を参拝することにしました。

諏訪明神社 '22.12.10

かつらぎ町と鎌八幡宮

 対面する紀ノ川を挟んだ市街地と山並みは冬晴れに輝いていますが、境内は樹下とあって、寒風にさらされた手指が凍えました。
 並んだ「諏訪明神社」と「鎌八幡宮」の社号標を右に見て石段を上がると、下写真に写る下壇の境内に出ました。ここで、両社が同一境内にあることを知りました。

諏訪明神社と鎌八幡宮
鎌八幡宮space諏訪明神社

諏訪明神社 正面が、拝所を除くと、社殿は祠が一棟だけという諏訪神社です。それでも、総本社である諏訪大社のお膝元から来た者とすれば、単純に、この地に諏訪神社を勧請した人が居たことを嬉しく思ってしまいます。
 その一方で、「奈良に近いから」が理由とも思えませんが、春日造の諏訪神社には違和感を覚えます。さらに、大棟の鬼板が、八幡神社に多い神紋「三つ巴」です。そんな立ち寄り参拝者の勝手な御託を並べながら、本来の目的である鎌八幡宮へ近づきました。

鎌八幡宮

鎌八幡宮 鎌が打ち込まれた神木は、「諏訪神社の鎌打ち神事」として多くを見ているので、さほどの驚きはありません。
 ところが、ここでは(神器ではなく)普通に市販されている鎌ですから、日常の暮らしから生じる何かを鎌に託して封じ込めているように見えます。私には「すさまじい光景」と映りました。

鎌八幡宮 上部を注視すると、柄が脱落した鎌の一群があります。早くに打ち込まれたものは木の生長で見上げる位置になり、かなり呑み込まれているのがわかります。
 改めて神木の周囲を眺めると、意外にこざっぱりしています。神木も比較的新しいものとして見ると、諏訪明神社を含めた境内がスッキリしすぎているような印象を受けました。

 これだけ強烈な個性がある神社ですが、諏訪明神社とともに案内板がありません。このまま帰ることはできませんから、図書館で由緒・由来を求めることにしました。ところが、かつらぎ町立であっても、不思議なほど郷土資料がありません。高野山のお膝元なので、そちらがメインになるのは仕方がないと思いましたが…。

諏訪明神社と鎌八幡宮の移転

 その後、諏訪明神社と鎌八幡宮は丹生酒殿(にうさかどの)神社に合祀されたことを知りました。そうは言っても現実に両社は存在していますから、一旦は神社合併という明治政府の施策に従ったものの、旧鎮座地に再び両社を再興したことになります。それで、境内が何となく物足りないように感じたことが納得できました。

『紀伊続風土記』

 移転(合祀)前と言っても江戸時代末期ですが、その様子を印した文献が『国立国会図書館デジタルコレクション』にありました。紀州藩が幕末に編纂した地誌『紀伊続風土記』〔伊都郡三谷荘〕から、[諏訪明神社]を現代文に直して転載しました。

〔兄居村〕
○諏訪明神社 境内東西三十六間・南北三十九間
 鎌八幡宮
 経蔵 拝殿 御供所
 村中にあり、鎌八幡宮は社壇の中に櫟の大樹あり、囲二丈許、是を神とし祭り鎌八幡宮と称し別に社なし、祈願の者鎌を櫟樹に打入れ是を神に獻ずという、祈願成就すべきは其鎌樹に入ること次第に深く、叶わざる者は落つという、根より上二丈許の所鎌を打つこと蓑(みの)のごとく寸地の空隙なし、鎌の深く入るものは樹中を貫きて芒(きっさき)刃外に出る事一寸余もあり、実に奇というべし、其鎌は大小好に従い社前に賣ものあり、祈願の者或は一時に千挺も打者あり、然るに其木鬱蒼として繁茂す事は左の碑文(三谷荘兄井村鎌八幡記※略)に詳なり、
 旧村中諏訪次郎右衛門という者村の鎮守諏訪明神の境内に仮殿を造りて八幡宮を奉ず、神靈社内の櫟樹に託(かか)る、櫟樹の側の小社は諏訪の神なるを鎌八幡宮の名盛にして本社の神名を人しらず、或は誤りて天照太神宮とす、諏訪の家代々神主たるに元和六年の火災に旧記灰燼となり伝説の詳なるを失う、諏訪の末葉(まつよう)今望月嘉八郎という、地士(じし)にて神職を兼たり、高野山より鎌八幡宮神酒料として大豆高六斗寄附あり 右に櫟の字を川ふるは俗に従うなり

 まずは諏訪明神ですが、読み終わってみれば「次郎右衛門の先祖が諏訪明神を創建した」ことが窺えるだけで、鎌八幡宮の記述がメインでした。その鎌八幡宮も「諏訪明神の境内に八幡神を祀ると、神霊が櫟木に宿った」とあるだけで、私が知りたい「鎌を打つようになった由来」には触れていません。この時代では、すでに忘れ去られていたのでしょう。

『紀伊国名所図会』

 次は、『紀伊国名所図会』に載る〔鎌八幡〕の挿絵です。

兄居鎌八幡宮 『紀伊続風土記』では、打たれた鎌を「蓑(みの)の如く」と書いています。柄が付いていれば納得の表現ですが、この絵では、すべての鎌を柄無しで描いています。
 省略したことも考えられますが、「一人で千丁も打った」という記述からは、鎌の密度を考えると、当時は柄無しの鎌であったとするほうが合理的です。
 因みに、ここに描かれている鳥居と灯籠は、丹生酒殿神社に合祀された際にその境内に移されたそうです。

兄居鎌八幡宮 鎌を持つ手を拡大すると、金属部分を握っているのがわかります。打ち込まれた形とも一致しますから、柄無しの鎌で描いたことがわかります。
 因みに、中央の三人は刀や脇差を腰にしていますから、主(あるじ)が、お供に肩車させた息子に鎌を打つ場所を指図していると説明できます。右下は、早くも祈願を始めた内儀とお付きの女中でしょう。

本来は柄無しの鎌

兄居鎌八幡宮 柄が脱落した鎌を単に古いものと見ていました。ところが、刃が付いていない・目釘の穴が一つであることに気が付けば、柄付きの鎌とは仕様が違うことがわかります。
 そうなると、奉献用に作られたものであり、『紀伊国名所図会』に描かれたものと同様の柄の無い鎌ということになります。現在は打つことが禁止されていますから、それ以降に、どうしても打ちたい人が市販品で代用したのが、今見る柄が付いた鎌と理解できました。

諏訪神社の鎌打ち神事

鎌打ち神事
石川県中能登町「鎌宮諏訪神社」

 写真は、石川県鎌宮諏訪神社の神木に打ち付けられた鎌です。刃先が外に向いているので、「風や厄災などの外敵を防ぐ」意味合いがあります。
 鎌八幡宮は、鎌を打つことは共通していますが「内向き」であり、さらに八幡宮であることが、「諏訪神社の鎌打ち神事」に結びつけることの妨げになっています。

 鎌八幡宮は、高野山から大豆の寄附を受けるなど、「神木に旗と熊手がかかった」聖跡として位置づけられています。しかし、それには、鎌打ちに関連付ける要素がありません。そこで、「原初は諏訪神社の神事だったものが、境内に八幡神社を祀るようになってから“色々とあって”、市井の人々が個人の願いを鎌に託すようになった」とまとめてみました。