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天津司舞 山梨県甲府市

 「天津司舞」が国重要無形民俗文化財の第一号に指定されていたことを知り、強い興味を覚えました。
 その史料を探すと、大森快庵著『甲斐叢記』がありました。嘉永4年(1851)という幕末ですが、現在と変わらぬ内容であることがわかります。巻頭にふさわしいとして、その一部を転載しました。

諏訪明神 小瀬村 建御名方命・天児屋命を合わせ祀れり。(中略) 七月十九日、本社より下鍜冶屋村雀宮(※鈴宮)へ神幸ありて、社庭にて天津司祭を興業せり。其場を竹もて拵(かこい)をなし、幕を張るを御船という。
天津司舞
挿絵「天津司祭(部分)
 小瀬村舊家(きゅうか)の者十七戸七日の斉(いみ)をなし、子弟ども相会(あつま)り、天津司を奉(ささげ)て拵の内へ入り雨淋(あまだれ)拍子に鼓吹(うちはや)して、一編木(ささら)・二編木・一太鼓・二太鼓・一鼓・一笛 以上みな頭に笠を戴き麻裃を着たり・鹿島 引立烏帽子を被り左右の手に刀を持つ・姫 首に瓔珞を冠り手に扇を持てり・鬼 手に拂子を持つ と次第して、幕の内より差挙げて是を舞せり。
 序破急(じょはきゅう)の節もありて最(いと)古風なり。舞終わりて齒本(ようじ)を撒(まきちら)せり。観るもの争いて是を拾えり。

天津司舞を見学 '10.4.4

天津司神社

天津司舞を待つ天津司人形
御幸を待つ天津司人形(奥が収蔵庫)

 拝殿に貼り出された『祭典執行』のトップに「神官お迎え 11時50分」とあります。その時間に、神職が消防団員二名の先導で忽然と現れたので、「神官を迎えに行く」のではなく、「諏訪神社の宮司が、天津司神社(収蔵庫)の神像を迎えに来た」ことがわかりました。

諏訪神社へ御幸

 神事が終わると、行列は、最短距離ではなく小瀬スポーツ公園内の道を複雑に曲がって行きます。公園の下になった、かつての神幸路に近い道をたどっているのでしょうか。

天津司人形神幸

 神像の顔はいずれも赤い布で覆われています。事前に参照した情報には「なぜ」の答がないので、「神像に、御幸をしていることを悟らせないため」と考えてみました。

鈴宮・諏訪神社

 拝殿の扉としては珍しいシャッターが上げられ、定紋幕の神紋が左右で違っているのが確認できます。奥に見通せる本殿も二部屋に分かれていますから、「初めは別殿だったが、後に相殿になった」も頷けます。

鈴宮神社・諏訪神社
諏訪明神鈴宮神社・諏訪神社鈴ノ宮明神

 左の紋が諏訪神社で使われる「立ち梶の葉」ですから、左の祠が「建御名方命(諏訪明神)を祀る諏訪社」であることがわかります。
 一方の鈴宮神社の祭神は「天児屋根命」ですから、右の「下がり藤」が神紋となります。

カシの幣帛

カシの幣帛 天津司神社からの御幸では、先頭の神職が大幣(おおぬさ)でお祓いをしながら進みました。甲府は暖かいので当然「榊」と思っていましたが、ヤナギのような細長い葉に見えます。
 玉串奉奠でも同じ枝葉なので、神職に確かめると「カシ(樫)」と言います。オウム返しの「カシですか!?」に、指の先に本殿左にそびえ立っている樫の大木を示しました。
 高地の自宅(長野県諏訪郡原村)では今朝も霜柱が立ちました。ここでの、すでに目に馴染んでいた満開の桜は受け入れていましたが、ここで青々と茂っているカシの木を見上げると、改めて季節の違いに違和感を覚えました。

天津司舞

 「桜をバックに季節感を」としたのが間違いで、杉葉下の一枚を除いては背景がゴチャゴチャしてしまいました。

天津司舞「ササラ・太鼓」
ササラspace大鼓
天津司舞「鼓・笛」
鼓(つづみ)space

 人形は、ササラと大鼓は各二体あるので「一ノササラ・二ノササラ」と呼ばれます。「御船囲」と呼ばれる幕の内側を踊りながら廻りますが、初めは、なぜ「天津司とは当て字で、傀儡(てずし)舞の田楽芸能である」なのかわかりませんでした。それも、笛太鼓に合わせて楽器を操作する「しぐさ」を見ている内に、やはり「傀儡・操り人形」と納得できました。

天津司舞「御鹿島様」 「御鹿島様」です。楽器ではなく、両手に剣を持って舞いますから主役であることは間違いありません。
 この時に、30cm位の小木刀が数本縁起物として撒かれます。ところが、幕の内側から投げ出されるので、タイミングも場所も全く予測がつきません。私は、争って拾う群れにさえ加われませんでした。

天津司舞「御姫様と鬼様」

 舞の最後は、(正式な神名があるそうですが)「御姫様」と「鬼様」です。このシーンでは、払子(ほっす)を振り回す「鬼」が、「姫」から半周(180度)離れた位置で周回しますから、「御鹿島様の妃を追う鬼」を表現しているのは間違いありません。この舞にストーリー性があるとすれば、御鹿島様を最後に登場させて「鬼に襲われる姫を鹿島神が助ける」としたほうがわかりやすいのですが…。

天津司神社へ還御

天津司人形の還御 天津司舞舞が終わると、神像の顔は再び赤布でくるまれました。花見と(流れてくる応援歌でわかった)ヴァンフォーレ甲府の試合で沸いている小瀬スポーツ公園内を、御幸の行列は、我関せずと古のペースを保ったまま天津司神社へ戻りました。

天津司人形はなぜ顔を覆う

天津司神社・鈴宮諏訪神社 国土交通省『国土画像情報』からダウンロードした、昭和22年9月撮影の航空写真を用意しました。
 まだ一面が田園という時代ですから、関係者が見れば「畦道を通った」という御幸(みゆき)道を指摘できるかもしれません。これに「諏訪神社(玉田寺)跡」「天津司神社(天津司の収蔵庫)」「鈴宮・諏訪神社」のラベルを貼ってみました。
 次に、『甲斐国志』〔○天津司〕から、関係する部分を抜粋したものを転載しました。

昔は諏訪明神の神前に飾り置しが、下鍜冶屋へ遷座の時より神主宅中に神庫を建て之を安置す。

 「天津司は諏訪神社の神前に飾り置いたが、諏訪神社が下鍜冶屋村の鈴宮に移ったので、神主宅中に神庫現天津司神社)を建てて安置した」ということですから、天津司の顔をなぜ布で覆うのかが見えてきます。

天津司人形 天津司舞を行うには、下鍜冶屋へ運ぶことになります。しかし、それでは「神形九つ現れ給うて舞遊びし」故地から離れることになります。そのため、下鍜冶屋の諏訪神社を小瀬と思わせる(だます)ために、目隠しをさせたとすることができます。神事の奉仕者は、「故地を離れたことを悟られたくない」という配慮をしたのでしょう。

天津司舞縁(ゆかり)の地を訪ねる

諏訪神社跡(玉田寺跡)

 嘉永4年(1851)に編纂された『甲斐叢記』は、「此の社(諏訪神社)は古この村(小瀬村)の玉田寺の域内に在りしが…」と書いています。その後の消息は、遺跡発掘調査書『小瀬氏館跡』に「江戸時代には玉田寺の寺域となった。玉田寺は大正時代まで存続したが、その後民有地となり現在にいたる。玉田寺の名残は、数基の石造物と墓石を残すのみである」とありました。

諏訪神社跡
原初に天津司を奉納したと伝わる諏訪神社跡

 五割川沿いにある、諏訪神社跡・小瀬氏館跡でもある玉田寺跡の前に立ってみました。しかし、天津司舞の故地であっても、「数基の石造物と墓石を残すのみ」そのままの光景でした。結局は、JA集出荷所の建物を見て帰ることとなりました。

西油川「釜池・鏡の井」

 『甲斐叢記』では、「(天津司は)最初十二体ありしが、中世に至りて二体は天に上り、一体は西油川村の釜池に浸りぬと言い伝う」。『甲斐国社記・寺記』では「一躰ハ此近処西油川と申所の旧井に入て…西油川の井は古名鏡の井と申し」とあり、「鏡の井」の別名があります。

 その池・井についての記述を最近の文献に求めると、島崎博則編『山梨県市郡村誌 』がありました。明治25年刊行とやや古いのですが、〔第九巻 山城村誌〕の[池沼]にありました。

釜池 古昔鏡ヶ池と称す、周回約一丈程、本村の東方にあり、清冷鏡の如し、此辺井泉なきを以て村民之を飲用す、土人云う、深きこと限りなし、若し経行の婦之を汲むときは忽ち濁りを生ずと、村内に奉祀する天津司祭の時は前日より蓋をなし標を立て近づかず、何の故たるを知らず、

鏡の井 「村の東」から、最東端となる旧西油川村に鎮座する諏訪神社の周辺を探すと、低いブロック塀に囲まれた一画の隅に、写真の井戸を見つけました。「周回約一丈(※差し渡し1m)・村で唯一の井戸」ですから、これが「鏡の井」でしょう。しかし、埋設した土管に水がたまっているだけで、すでに跡になっていました。
 案内板が無いので断定するに至っていませんが、生垣に注連縄が張られているので間違いないでしょう。

古文献に見る「天津司舞」

 参照した古文献を並べてみました。興味のある方は一読してください。

山梨県立図書館編『甲斐国 社記・寺記』

諏訪宮・鈴宮 山梨郡中郡筋小瀬村鎮座 当社の儀は、往古村内時宗玉田寺の寺域宮地に御座候処(ござそうろうところ)、鎌倉右大将家の御時(※源頼朝の時代)武田五郎信光は軍功に依りて中郡を賜り、城地御見立の上召方に命じられ処、当社の儀御相応に付神殿を下鍛冶屋村鈴宮に移し奉り 昔は両社相別殿に御座候処、何れの頃か相殿に罷(まか)り成り申し候。居城に御取立て成られ、今居館(いまいのたち)と申し候。
 其後石和館(いさわのやかた)に御遷(かえ)リ成られ候いても、数拾世間親戚(みうち)の内有功(※手柄をたてた)の輩(やから)ここに封じられ候由(そうろうよし)。当社の儀申す。甲斐源氏殊に御尊崇の神にして、時々御造営御座候事(ござそうろうこと)上梁文(じょうりょうぶん※棟札)社記に相見へ申し候。
 今居館廃して後は武田家の後室尼に相成り、一宇(※軒)の草堂をいとなみ玉伝寺と称す。諏方明神の旧跡たるを以て是を伽藍神(がらんじん※寺院を守る神)とす。堂前に旧処石碑有り。又寺域の乾位(※北西)に当り諏方水とて清水有り。是れ古(いにしえ)の御手洗の由。

 〔天津司宮 山梨郡中郡筋小瀬村鎮座

 当社は往古何れの頃に有りけん。此辺総て河原の時、毎々吉祥日夕栄朝栄(ゆうばえ・あさばえ)などの日、十二の神形天降り舞楽給いしに、二体は天へ昇り、一体は此の近処西油川と申す所の旧井に入りてより、神形九つ現れ給うて舞遊びしか。其後村里となり、穢(けがれ)不浄故(ゆえ)か其の事止みぬ。
 暫(しばら)くありて後、何れの人か彼(かの)神形を写し神像に造りしが天津司の濫觴(らんしょう※始まり)なり。其後此所の名を古瀬村と云う。
 勧請年代久遠(くおん)(ゆえ)不詳。大永二年壬午(1522)武田民部少輔(みんぶのしょうゆう)信乗修造(※修理)、閏(うるう)八月二十七日成就と棟札に御座候(ござそうろう)
 今に七月十九日祭礼これあり。当社古来の百姓十七軒十七日潔斎いたし、九体の神形を供奉(ぐぶ)いたし下鍛冶屋村諏訪鈴宮の社中に御幸(みゆき)あり。神遊(かみあそび)神事修行仕り候。神遊式九体の古式は神主并(ならび)に十七軒の百姓代々の口伝に仕り置き申し候。
 西油川の井は古名鏡の井と申し、今に七月十九日神遊びの時刻には水の上に影あらわれ舞遊ぶと申し伝え、神形の正しく顕然(けんぜん)と映るをもって鏡の井と云う。此村他に井なし。一村此水をくみ、使い水とす。掘抜にて清冷徹骨(てっこつ)候。経行の婦・不浄のもの・其他非人乞食の類(たぐい)これ汲むを禁ず。もし誤ってこれ汲むの時は急に濁ると云々(うんぬん)
 七月十九日には一日水を汲み置き、蓋をいたし標(しめ※注連縄)を引き、はえて不散を(あえて近づかず?)。毎年祭礼中かくの如し。祭礼相済み夕方蓋取る由。 (中略)
 右(※天津司)往古は諏訪の神前に飾り置き候処、諏訪の宮下鍜冶屋村鈴宮の社地へ引き候節、天津司は神主屋敷へ文庫を建て安置す。 (後略)

大森快庵 著『甲斐叢記』  甲斐志料刊行会編『甲斐志料集成』

雀宮(ささのみや) 下鍜冶屋村 許勢祠(こせのやしろ)の行宮(うりみや)にて雀部(ささべ)明神と祀りしかど、今は諏訪明神を配せ祀れり。古は此地巨勢小柄(こせおがら)と続き、一帯の地にて後世に三村と分かれしと見ゆ。すでにも言いし如く古事記に出たる地なり。
 然(さる)(※さて)、雀をスズメとそ読める故(ゆえ)、人誤りてスズメミヤと称しを更に訛りて、今は鈴宮とのみ呼ぶことになりぬ。
諏訪明神 小瀬村 建御名方命・天児屋根命を合わせ祀れり。社記に、此の社は古(いにしえ)この村の玉田寺(ぎょくでんじ)の域内(さかいうち)に在りしが、武田五郎信光朝臣の時、神殿を下鍛冶屋村の雀宮(ささのみや※鈴宮)へ遷して居館と営み今居館(いまいのたち)と云う。
 その後石和館(いさわのやかた)に移居(ひきうつり)てより数世の間、此の地をば親戚(みうち)の功(いさお)ある者に宛行(あておこな)わる。
 宝徳中より巨勢宮内少輔(こせくないしょうゆう)信賢の居館となれり。その孫民部少輔信乗、大永二年(1522)八月諏訪明神の像を刻みて本殿に納めと伝う。巨勢氏断絶の後、夫人一蓮寺の任阿上人の弟子となりて此に住み至り。是より遂に寺地と成り至り、寺内に諏訪明神の碑及び諏訪水と言い伝うあり。
 此の社内に天津司と云える古木偶(ふるにんぎょう)あり 按に天津司はテグツを誤りたる成るべし。社記にその始めを知らず。然れど古昔(むかし)は諏訪明神の神前に飾り置きしが、下鍜冶屋村へ遷座の時より神主の家に納め置けり。
 最初十二体ありしが、中世に至りて二体は天に上り、一体は西油川村の釜池に浸(い)りぬと言い伝う 釜池古は鏡池と呼べり。此の村外(ほか)に井泉(いみず)なく、村内是を汲めり。深くして底なく至りて清冷(きよらか)なり。不浄の者汲む事を忌ましむ。もし誤りて汲む時は忽ち濁れり。祭の前日よりは蓋を覆いて汲む事を許さずと云う
 今存(のこ)れるは九体なり。其の大きさ人長(ひとたけ)にあるべし 俗に九曜の星に象(つかさど)るという
 七月十九日、本社より下鍜冶屋村雀宮(※鈴宮)へ神幸ありて、社庭にて天津司祭を興業せり。其場を竹もて拵(かこい)をなし、幕を張るを御船という。
 小瀬村舊家(きゅうか)の者十七戸(けん)七日の斉(いみ)をなし、子弟ども相会(あつま)り、天津司を奉(ささげ)て拵の内へ入り雨淋(あまだり)拍子に鼓吹(うちはや)して、一編木(ささら)・二編木・一太鼓・二太鼓・一鼓・一笛 以上みな頭に笠を戴き麻裃を着たり・鹿島 引立烏帽子を被り左右の手に刀を持つ・姫 首に瓔珞を冠り手に扇を持てり・鬼 手に拂子を持つ と次第して、幕の内より差挙げて是を舞(まわ)せり。
 序破急(じょはきゅう)の節もありて最(いと)古風なり。舞終わりて齒本(ようじ)を撒(まきちら)せり。観るもの争いて是を拾えり。

野田成方編『裏見寒話』 甲斐志料刊行会編『甲斐志料集成』

諏方大明神・鈴宮大明神 相殿 武甕槌命・天兒屋根命 天頭司と云。(略)

 毎年七月十九日祭禮。小瀬村より下鍛冶屋村迄凡(およそ)三町餘、此間天津司を舞ず。平素天津司人形は小瀬村の宮に納めてあり、此人形九ッ有之(これあり)九曜星に譬ふ。大(き)さ拾歳計の小兒の形、装束は白の小袖麻上下九曜星の紋を付て併麻上下を着せたるは後代の事也。元の服は上下にていなかり(?)といふ。笛太鼓をもち女人形一ッ紅縫(くれないぬい)金の小袖・鬼女一ッ赤き面赤き装束なり。
 小瀬村より下鍛冶屋村まで此人形を村の重立たるもの雍樹(ようじゅ※小児を抱くよう)に載て行く其途中、武士出家たり共警蹕(けいひつ)する事甚(はなはだ)厳重也。
 下鍛治屋鈴宮社前に貳間四方程の行馬(?)をしつら(設)ひ、田町(?)交りの古き幕を張り、笛太皷にて囃し、踊を成す事數遍にて止みぬ。其興なる事甚(はなはだ)可笑し、諾人是を何と心得る歟(や)、此人形を至誠に拜す。此人形は神主たり共扱ふ事能(あた)はず。村民の重立たるもの扱と云り。
 里俗云。昔此人形十貳天より降る。其内三ッは天に登ると云へり。予(※私)中澤左近に人形の由来を問。答て云。いつの頃より傳ると云事を知らず。面中の禿げ方衣装の古び方を以て考ふるに、大古の物と見えたり。但(ただし)當祭は星祭也、時始めて秋にして金気を催す故に、星を祭りて農饒を折りしと見ゆ。
 蓋(けだし)其昔傀儡(くぐつ)未た世に非る頃、農人共此人形を以て祭り也とて遊戯せしを、自然後世に其例傳りしと見ゆ。

天津司舞 ここでは「鬼女一ッ赤き面赤き装束なり」と書いています。改めて写真を確認すると「長髪に冠・白衣」でした。


萩原元克編『甲斐名勝志』 甲斐志料刊行会編『甲斐志料集成』

○天津司社 小瀬村 土人相傳、往昔何れの比にか有けん、此地大なる川原成しに、毎年七月十九日、九の靈形天降り舞遊ひ給ひしに、村里となりてより不浄有し故か其事やみぬ。其後、此地の東なる油川村の井にあらはれ給ふを移(写)し、木像を造りしとなり。
 大永の頃。武田民部少輔信乘修造の事棟札にあり。七月十九日祭禮有て下鍜冶屋村諏訪鈴宮の社に御幸有。此社は建御名方命・天兒屋根命を祭れり。油川の井、今に祭の日には靈形あらはれ給ふとて、前日より蓋をおほ(覆)ひて見るものなし。一説に九体の靈形は九曜に比して星の神を祭れりと云。

[甲斐国志] 甲斐志料刊行会編『甲斐志料集成』

天津司 社記に曰(いわく)、其権與(けんよ※始まり)を知らず。昔は諏訪明神の神前に飾り置しが、下鍜冶屋へ遷座の時より神主宅中に神庫を建て之を安置す。
 最初十二躰あり。中世に至て二躰は天に上り、一躰は西油川村の釜池に没すと云 釜池は古名鏡ヶ池と云。此村別に井泉なし。擧村(きょそん※村を挙げて)之を汲む。深くして当なし。清冷骨に徹す。経行の婦・不浄の輩・其他乞食非人の類之を汲む事を禁ず。若し誤て之を汲むときは忽(たちま)ち濁る。祭礼の前一日水を汲置き蓋を為し、標(※注連縄)を立て敢て近づかず 
 今存する所九躯なり。大抵中人の長さの如し 俗に九曜に表すと云 。一ノ編木(ササラ)・二ノ編木・一ノ大鼓・二ノ大鼓・一ノ鼓(つづみ)・一ノ笛 以上皆首(※頭)に笠を戴き麻裃を着す 。鹿島 引立烏帽子を着し左右の手に刀を持つ 。姫 首に瓔珞(ようらく)を冠り手に扇子を持つ 。鬼 手に払子(ほっす)を持つ と次第す。
 七月十九日諏方の社前に興行す。其囲いを御船と云。下鍜冶屋村にて之を作る。飾り竹は落合村より出す。小瀬村にて古来の百姓拾七戸標を立て斉(い)みする事七日 今は三日 。当日に至り子弟相会し天津司を奉じて囲いの内に入り、雨垂拍子に鼓吹して次第の如く天津司を舞わす。序破急の節あり。舞終わりて齒木(ようじ)を撒(さつ)す。観る者相争て之を拾うと云。