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湯島南方神社の並立鳥居 鹿児島県薩摩川内市湯島町

鹿児島県薩摩川内市湯島町 明治初頭に、諏訪神社を南方神社に改称しています。「旧草道村湯浦の“湯”と平島の“島”を合成したのが湯島町」ということで、湯島南方神社と固有名詞化しました。以下に出る『三国名勝図会』では、「諏訪・諏方」が混在しています。


 薩摩藩の地誌『三国名勝図会』があります。〔高城郡 水引一〕から、並立鳥居が描かれた「平島 諏訪磧」を転載しました。

南方神社「並立鳥居と諏訪磧」
(二頁に別れた絵図を一枚に合成)

 同書の「平島」です。

平島 草道村千臺川畔にあり。(中略) 彼の石磯より下流三町許りに諏方磧(すわせき・すわかわら)あり。磧の根に諏方神祠あり、因て名を得たり、此磧甚(はなはだ)長くして、石巌江中に突出すること長さ四十間許(ばかり)、廣さ八間許、磧上平坦にして、水上に出ること常に八尺許、江水其磧を廻流す、此處より眺望すれば、江流渺然(びょうぜん)として、水勢緩く流れ、宛然(えんぜん)として湖水の如く、風景甚佳なり、春日夏夜小舟に棹し、遊觀する者多し、叉此邊(辺)江中に蜆(しじみ)を産す、其蜆悉(ことごと)く細蟹を寓す、他所になき奇産なり、

 江戸時代の『三国名勝図会』では「諏方社」ですが、明治期に「南方神社」と改称したことは知識にありました。鹿児島県神社庁のサイトを覘くと、神社名は「南方神社」で「ミナカタジンジャ」とフリガナがあります。祭神は「建南方命」で、「タケミナカタノミコト」でした。
 同サイトに載る南方神社には「ミナカタ」と「ミナミカタ」の二つの表記があって統一性がありませんが、地元で用いられる名称を尊重したということでしょう。

湯島南方神社 '16.12.5

 カーナビの指示に忠実に従い、鹿児島県の西部に位置するとしかわからない薩摩川内(さつませんだい)市へ向かいます。「目的地周辺です」の声で前方を注視すると、堤防の向こうに赤い鳥居が二基見えました。

南方神社の並立鳥居(薩摩川内市湯島町)

 必ずしも駐車場完備とは限らないので、たまたま目に付いた駐車帯から歩くことにしました。左方の出っ張りが、『三国名勝図会』にある「諏方磧」でしょう。

南方神社の並立鳥居

 係留された小舟や川面から突き出た岩礁に群がる水鳥を眺めながら近づき、九州まで遙々(はるばる)来たのはこれが目的という並立鳥居を仰ぎました。
 境内には「南洋のもの」としか書けない長く幅広の葉を持つ木があり、如何にも南国の諏訪神社という雰囲気を醸し出しています。しかし、鹿児島県では明治初期に多くの諏訪神社が「南方神社」と改称させられており、ここも南方神社ですから、諏訪人としては残念な対面となりました。

南方神社の拝殿
社額は「南方神社」

 拝殿の床が一様に濡れています。一見は、川霧の成せる技としました。しかし、三方が開放された造りにも関わらず塵や埃がありません。ぞうきん掛けをした可能性を考え、靴を脱いで、奥まった場所にある扉の前に進みました。

南方神社本殿 格子から窺った、鳥居と同じ色に塗られた本殿は予想外の一棟でした。
 通常は上社と下社の本殿を左右に分けて安置します。それに対応して鳥居を二基並列に建てるのが「諏訪神社(南方神社)」です。しかし、本殿が相殿になっていることに気が付き、これはこれで正しい祀り方と納得しました。
 帰り際に対岸を眺めると、何かの工事をやっています。その上の堤防上を車が走っているのを見て、その対岸から並立した赤い鳥居の写真を撮ることにしました。

南方神社の並立鳥居

 その目的は達成しましたが、渺然・宛然・甚佳と美辞麗句が並ぶ諏方磧は、「左方の大石小石がそれでしょうか」と言う規模です。今では「名勝諏方磧」を偲ぶよすがもないと書いてみましたが、絵図は大きく誇張して描くのが“常識”なので…。

川内原子力発電所

 実は、市内で「原発」の文字を幾度も目にしていました。それが、テレビニュースなどで記憶にあった原発特有の建屋を見たことで、今再稼働で問題になっている九州電力「川内原子力発電所」であることに気が付きました。また、南方神社から4Kmしか離れていなかったことは意外でした。

諏方磧

 冒頭に挙げた「平島 諏方磧」が余りにも奇勝なので、地図ではどうなっているのか調べてみました。

諏訪磧 『地理院地図 Vector』では、「島状のものが諏方磧の名残」と言えます。浸食された岩石が水流が弱まるカーブの内側に堆積したのが、後方の三角形の砂州でしょう。


諏訪磧 「明治三十五年測図昭和七年要部修正測図十年部分修正測図」とある、参謀本部『羽嶋』です。
 修正の対象になったのかは不明ですが、昭和10年ではまだ小半島状に突き出ているのがわかります。


諏訪磧 川の水量によって変わるかもしれないと考え、国土交通省『国土画像情報』にある航空写真を閲覧しました。
 一番それらしく写っているのが昭和50年2月撮影のものです。冬の渇水期には、「諏方磧」が偲ばれる景観が現れるのかもしれません。