伊藤富雄著『伊藤富雄著作集 第一巻』に『御射山祭の話』があります。〔京都諏訪社の御射山祭〕から、冒頭の部分だけを転載しました。
これで、「諏訪神社(大社)上社──諏訪開諏訪神社・諏訪神社(大社)下社──尚徳諏訪神社・御射山社──御射山諏訪社※」の形態が、そのまま京都の中心部に造られたことがわかります。言い換えれば、京都のど真ん中に「なぜ諏訪神社が三社もまとまってある」のかが理解できます。
金井典美著『諏訪信仰史』の〔狩猟神としての諏訪信仰〕から、一部を転載しました。
ここに「諏訪神社は、中京区の区役所のあたりにあった」とあるので、航空写真では最も古いと思われる、米軍が昭和21年10月に撮った〔京都市中京区〕を用意しました。
□で囲ったのが、区役所の庁舎です。
文献を読み、「辺り」であっても旧鎮座地がほぼ特定できたことで、京都御射山社の「その後」に大いなる興味を持ちました。しかし、“排他的”と言われている京都に、馬の骨の私が乗り込んでも門前払いになるのは明らかです。そこで、その消息を、ネットで得られる情報のみでどこまで追えるかを試してみました。
京都の住所は“複雑怪奇”ですから、まず「御射山町」で検索してみました。その結果、「ウイングス京都」の入口にある銅板プレート写真を見つけました。
京都には「んっ?」という、一般の辞書には載っていない言葉がよく出現します。「学区」は早く言えば住民自治組織で、「両側町」は「通りをはさんだ両側を単位とする町組」のことだそうです。読み流しても差し支えありませんが、細かいことにもこだわってしまう私はつい調べてしまいました。
また、Blog『蘭鋳郎の日常』には、「(諏訪神社は)ウイングス京都の北側にある日彰自治会館が建っている辺りと言われています。社がなくなった後も、御神体は町内の旧家が守ってこられましたが、今日では八坂神社にお預けになったそうです」と消息が載っていました。
旧鎮座地が「六角堂の“右下”」とわかったので、京都に残る古絵図がどのように表(あらわ)しているのかを調べてみました。
京都大学付属図書館蔵『古地図コレクション』のサイトから、『洛中絵図』の一部をお借りしました。
寛永14年(1637)の作とありますが、極限まで“おおらかに”に読んでも「御射山」とはほど遠い字でした。念のために、同じ京都にある尚徳諏訪神社をこの絵図で参照すると、かすれていますが「上すはノ町・よこすはノ町・下すはノ町」がありました。
「上・横・下」以下が同じ字とわかったので、「すはノ町」と読むことができました。しかし、御射山ではなく諏訪と表記してあることが不思議です。
こちらは、『国立国会図書館デジタル化資料』から、貞享3年(1686)刊『京大絵図』の一部です。
「◯◯の丁」としか読めないので現在の尚徳諏訪神社参照すると、「上寸ハの丁・寸ハ大明神」です。同じ「諏訪」でも字が違うという結果になりましたが、『電子くずし字字典データベース』にすがると、何とか「すハの丁」と読めました。
ここで、前出の〔京都諏訪神社と蛙狩り神事〕を熟読すると、「祇園祭に御射山という山鉾を出したのを記念して御射山町と改められた」とありました。そのため、それ以前の絵図では、諏訪(すは)と書いてあるのは当然のことでした。自分で書き写したものですが、肝心なことをすっかり忘れていました。
上図と同じですが、『新撰増補京大絵図』とあるので改訂版ということでしょう。元禄9年(1696)ですから10年後の刊行となります。
同じ版木ですがインク(墨)の量が適切なので、私でも迷い無く「すハ」と読めました。因みに、一文字目が「春」のくずし字で、「す」の変体仮名となります。
京都市編『京都市史 地圖編』に、寛保元年(1741)刊『京大繪圖』を見つけました。まず「六角堂」を探し、その右下に目を転じると「御射山丁」があります。並んで[スワ社]もありました。
これで、元禄9年版『京大絵図』が出版されてから45年の間に御射山町と改名したことがわかりました。
宝暦4年(1754)とある『京都繪圖』です。前図より13年後ですが、ここでは「御い山丁」になっています。「い」は、どう譲歩しても「射(さ)」とは読めませんが、睨めっこを続けると、「射」を「い」と読んだ可能性に思い至りました。当時の印刷は版画ですから、摩滅した版木を更新する際に、画数の多い漢字を嫌ってひらがなに直すことで生じた誤読と断定しました。
さらに調べると、国立国会図書館『レファレンス共同データベース』に、「回答」として以下のものがありました。
ここに出る『京町鑑(きょうまちかがみ)』を読むと、確かに「▲御射山(ミさやま)町 此丁東がわ人家のうらに諏訪明神のやしろ有」とあります。これで、1723年から1741年の間に、現在まで続く御射山町に改名したことになりました。
サイト『国際日本文化研究センター』の〔データベース〕に、江戸時代の“ガイドブック”『拾遺都名所図会』が収録してあります。これは、「『都名所図会』の後編として天明七(1787)年秋に刊行されたもので、前編と同じく本文は京都の俳諧師秋里籬島が著し、図版は大坂の絵師竹原春朝斎が描いた墨摺五冊本である」と説明があります。
御射山諏訪社 東洞院通六角の南、御射山町人家の奥にあり、信州諏訪明神を勧請す、鎮坐の年記詳ならず、毎歳七月廿七日祭式を修す
それにしても、京都は今も昔も見所満載の「都」ですから仕方ないとしても、御射山諏訪社の紹介が二行だけという扱いには諏訪大社の氏子としては不満があります。そうは言っても、江戸時代での社殿の規模は“この程度”だったということなのでしょう。
再び『伊藤富雄著作集 第一巻』の同章から抜粋しました。「京都東洞院三条南にある諏訪社は、(中略) 室町時代、京都諏訪社でもまた御射山祭が行われました。まずその御狩については、「もうぎゅうひようおうらい」と読んでみた『蒙求臂鷹往来』に…」として、「原書は漢文」と断り書きがある一文を引用しています。
ここに出る「廿七日」が『拾遺都名所図会』にもある「七月廿七日祭式」で、諏訪大社では現在も行われている「御射山祭」の中日です。
同じく、「『蔭涼軒目録』に次の如くみえています。…」として、紫野馬場で笠懸が行われたことを引用しています。
〔京都諏訪社の御射山祭〕の章は長文なので、関係する部分だけを抜粋しましたが、最後に“他力本願”のまとめとして、再びこの章の最終部分を転載しました。
前出のBlogに「八坂神社にお預け」とあるので「八坂神社 御射山」で検索すると、加藤隆久編『神葬祭大辞典縮刷版』が見つかりました。表示した〔八坂神社の祖霊社〕の項から、関連するものを引用しました。
またもや出現した「下京四区」は、前述の「元日彰学区」のことでした(京都の紹介にはホトホト手間が掛かります)。
続いて、『官幣中社神社明細帳』にある明治十五年の文書を挙げて
と書いています。この中で、「建坪五合九勺五才」がわかりません。「合・勺」は尺貫法の体積なので誤記ではないかと疑いましたが、念のために調べると「1坪=10合」とありました。単純計算で「0.6坪」になりました。
この本から、御射山社の社殿(本殿)が八坂神社の境内にある「祖霊社」として使われていることがわかりました。今度は「八坂神社 祖霊社」で検索すると、幾つかのHP・Blogが表示しました。当然ながら「祖霊社」の説明なので、御射山社との関係は不明のままです。
八坂神社の祖霊社です。正面なのでわかりづらくなっていますが、向拝柱が無く屋根のカーブも直線ですから「流造」ではありません。
また、この写真では木肌の風化が見られないので、最近新築した社殿と思われます。『神葬祭大辞典』には「現在の社殿様式、また建坪とは同様で建設当初のものと思われる」とありますから、2003年の発行当時は“当初のもの”だったのでしょう。
社殿は転用されても「御神体」はどこかに残っているはずです。「近くの家の内庭・町内の旧家が守ってこられました」という記述がいつの時代のものかはわかりませんが、それが「今日では、八坂神社にお預け」まで追跡できました。
合祀とすれば、八坂神社の末社「十社」内に祀られた「諏訪社に合祀」が妥当な流れですが、「お預け」では、まだ落ち着く場所が決まっていないのかもしれません。
前出の『諏訪信仰史』では、「丸橋家の内庭に諏訪神社(御射山社)が…」と書いています。その丸橋家の当主からメールがあり、「現在は、わが家のビル屋上に鎮座されております」と、その消息を知らせてくれました。
ビルの建設時に御霊代を八坂神社へ一時遷座させたそうですから、ネットの情報「お預け」は、その時点では正しかったことになります。これで、町名の元になった御射山諏訪社が、現在も「御射山町」を見下ろしていることになりました。