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「みたらしの石仏」の謎

 現在、「万治の石仏=みたらしの石仏」が広く“流布”しており、万治の石仏の別称が「みたらしの石仏」と定着しています。ところが、調べる中で、万治の石仏に「みたらし」の石仏を重ねることは無理である、という結果に落ち着きました。
 その経緯を「みたらしの石仏は、下の原村の地蔵菩薩だった」という話にまとめたのが本文です。長文になってしまったので、「万治の石仏の謎」から分離させました。

「みたらのし石仏」とは

 『下諏訪町公式サイト』の〔生涯学習情報〕[下諏訪町の文化財]では、「万治の石仏」を以下のように紹介しています。

 ここを東山田の小字石仏といい、延宝3年(1675)の検地帳や享保18年(1733)の『諏訪藩主手元絵図』には「えぼし石」と、下の原村の文化2年(1805)の「山の神講歳代記」には「みたらしの石仏」と記されている。(以下略)

ここに、「みたらしの石仏」が登場します。下諏訪町(教育委員会?)が監修しているサイトなので、そのまま転載されてしまうのでしょう。
 次に、下諏訪町第一区郷土誌 下の原』の〔みたらしの石仏(万治の石仏)〕に、「下の原の人々が『浮島の阿弥陀さま』と呼んでいた石仏が、最近になって『万治の石仏』と…」で始まる3ページにわたる解説があります。ここに、[下諏訪町の文化財]の「万治の石仏」が引用した『山の神講歳代記』が載っています。

 文化二乙丑

一、みたらし石仏儀、百六十二年より文化二年(1805)(うるう)八月三日より村の忠蔵女房参り始(め)あらたかにて、近在は申すに及ばず他所より大きに参り候、

一、地所儀、地分東山田分持地村の吉兵エの地所に相違無し、

続けて、『郷土誌 下の原』は以下のように解説しています。

 万治の石仏の周辺の地所は現在も吉兵衛の子孫が受け継いでいるから、この「みたらしの石仏」はいまの「万治の石仏」のことをいうものと思われる。「百六十二年より」を百六十二年以前よりと解釈すれば、寛永二十年1643となり万治三年1660より十七年古いことになる。

 この後に、「(計算に合わない)百六十二年より」を、間違い説を含めた諸説を挙げていますが結論に至っていません。最後に「この石仏は作者を始め、時代や宗教背景など確かな史実はなく、今後の調査研究を待ちたい」とまとめています。

 『郷土誌 下の原』では「みたらしの石仏=万治の石仏」を前提にしているので、(何とかして万治の石仏に関連づけようとして)このような解釈になるのでしょう。そもそも、隣村に存在する万治の石仏を自村のみたらしの石仏として取り上げたのが間違いでしょう(と、言い切ってしまいました。反論が…)

「みたらしの石仏」はどこにある

 再び『郷土誌下の原』から、「御手洗(みたらし)川汐」の一部を抜粋しました。

 御手洗川の汐(せぎ)は浮島を取入口にして、下の原平坦地域全域を網の目のように合理的に流れる汐である。この汐の成立が下の原村落の成立と密接に関係をもっている。

『郷土誌下の原』 浮島の春宮側から取り入れた用水の一部は「春宮参道の下馬橋」下を通っています。下馬橋では藩主も馬を降りて川の水で手を清めたことから、一般参詣人も「御手洗」として使ったのでしょう。小字(あざ)も、左の『宝暦八年(1758)集落地図』では「春宮参道と戸川(砥川)の間・下馬橋の上」に当たる部分が「御手洗」になっています。

 このように、御手洗川は「下の原村の用水(汐)」ですから、砥川を挟んだ隣村「東山田村」にある(万治の)石仏を「みたらしの石仏」とするのは無理があります。同書には、文中に(わざわざ)下の原の人々が『浮島の阿弥陀さま』と呼んでいる」とありますから、「みたらしの石仏」は、あくまで下の原村内(御手洗川の近く)にあることが必須となります。
『諏訪藩主手元絵図』から下の原村(部分) 左は、諏訪史談会編『復刻諏訪藩主手元絵図』にある「下の原村」の一部です。下馬橋の下方に(凡例の)小堂が描かれ「堂」と書いてあります。石仏に冠された「みたらし(御手洗)」は地名からとったとするのが妥当ですから、御手洗川沿いにあるのが“スジ”でしょう。その中でも、この堂内か境内にある石仏を「みたらしの石仏」とするのが無理がないとしました。該当する場所に、下諏訪町文化財「十王像」の案内板があったのを思い出したからです。

行屋から浮島へ

下諏訪町「明新館」 平成22年7月21日、久しぶりに明新館の前に立ちました。近くにある案内板には「明新館は、行屋と呼ばれるお堂を取り壊して建てられた」とありますから、『諏訪藩主手元絵図』の「堂」と一致しました。
 改めて読んだ下諏訪町文化財「十王像一組」とある案内板に、予想に近い「寛永十九年壬午(1642)九月二十一日の刻銘があり…」を読んで思わずニンマリしました。

御手洗川 下馬橋から、今は暗渠となった御手洗川をたどると、バス道から“川面が見える川”に変わり、その先は浮島の取り入れ口でした。写真では、砥川の赤い手すりから手前が旧下の原村になります。
 家中より砥川の川風の方が涼しいのでしょう。老体の男性三人がくつろいでいます。尋ねると、「万治の石仏は、みたらしの石仏とは言わない」と返ってきました。下の原の住民ですから間違いないでしょう。因みに、観光客は突き当たりのT字道を、右の春宮境内から左にある浮島への橋を渡って万治の石仏へ向かいます。

「みたらしの石仏」は「地蔵菩薩」

 「十王像一組」の案内板とは別に、写真で見る下の原編纂会『写真で見る下の原』の〔3 十王像他〕から抜粋しました。ここで言う「他」は、「三途河婆・獄卒・浄玻璃鏡・地蔵菩薩」を指しています。

地蔵菩薩(高さ0.44m)は地獄の六道で獄卒にいじめられて苦しむ亡者を救ってくださる。この地蔵には「大六願 有盛上人 為郷也 薩摩之覚上人 寛永十九年壬午九月二十二日」と刻まれている。

 地蔵菩薩像には、チョークでなぞったのでしょう、白くマーキングした寛永の文字がクッキリと読めます。

 次に、『郷土誌下の原』の記述と重複しますが、改めて『山の神講歳代記』の〔一、百六十二年より〕を取り上げました。
 まず、「百六十二年より文化二年…」ですから、「より」を「前より」とすれば文化2年の162年前で「1805−162=1643」となります。年代表で確認すると「寛永20年」です。地蔵菩薩は寛永19年ですから、正確には1年違います。しかし、「地蔵菩薩の9月22日」と『山の神講歳代記』の「8月3日」の間一ヶ月を、(自説に都合のいいように)「切り捨て・切り上げ、数え・満の違い」で“処理”できますから、みたらしの石仏は地蔵菩薩に限りなく近くなりました。ただし、像の高さが44cmであることが気になります。

「吉兵エ」さん

『郷土誌下の原』 前出の「宝暦8年集落地図」です。祈りと期待を持って「みたらしの石仏推定地・御堂」の周囲を確認すると、…「春宮参道を挟んだ道向かいで、下馬橋下の家が吉兵衛さん」です。
 御堂(行屋)の周囲は「田」ですから、前記『山の神講歳代記』の「…地分東山田分持地村の吉兵エの地所」が一致しました。そうなると、「吉兵エは下の原村の吉兵衛」で、御堂の地主でもある可能性が高くなりました。こうなると、『郷土誌 下の原』が言う「万治の石仏周辺の地所は現在も吉兵衛の子孫」は、「御手洗の石仏周辺…」の間違いだったことになります。
 ここで指摘されそうなのが「隣の東山田村の吉兵衛が、なぜ下の原村に」という疑問です。これは「隣の東山田村が分けて持つ」と解釈できる「東山田分持」に求めることができますが、明解には説明できません。
 図書館にある明治期までの絵図を比較すると、時代で村境が大きく変わっています。原則は「砥川が境」ですから、氾濫による砥川の流れの変化とその時代の経済格差で、“取ったり取られたり”の飛地ができたと考えました。村境を越えての土地売買は法度と思われるので、越境して耕作する「出作」が考えられます。『諏訪藩主手元絵図』では村境によく「(隣の)◯◯村分田地」と書かれているので、これが「分持」と推定できます。

「東山田分持地」['12.1.5 追記]

 増沢五助著『東山田 古代史』の「伝金刺大祝邸跡」に以下の文を見つけました。

…古老は「昔下馬橋の辺りまで東山田分であったが、砥川の水害で河床が上がり西へ順に追われてきたという」と語った。

 まだ正確な解釈ができない「東山田分持地村の」ですが、「東山田分持地、村の…」と区切れば、東山田村の飛び地である「吉兵エ・吉兵衛の地所」が宝暦の絵図に重なります。
 これまでに挙げた事跡をもって断定することはできませんが、「万治の石仏=みたらしの石仏」が消え、下の原村の「みたらしの石仏」は(小さくとも)「地蔵菩薩」と落ち着きました。まさに、他所より大勢の人が参拝した「流行り地蔵」となりました。