万治の石仏には幾つかの謎があります。重箱の隅が大好きな私は、想像力をたくましくして、万治の石仏と万治三年の謎に迫ってみました。
現地にある案内板をそのまま書き写しました。
大らかで大ざっぱなのが伝説の面白さなので、そこまで「下諏訪町」を“突っつく”のは、と反発を受けるのを覚悟で難癖を付けてみました。
まず、冒頭に「願主が二人の僧」と実名まで挙げているのに、「石工がまつって記念とした」では大きな矛盾となります。また、「ノミを入れたところ…仕事をやめた」とありますが、現状を見る限りでは、血が流れ出ても削り取るまでは止めなかったことになります。さらに、神様(鳥居)ではダメで、仏様(石仏)ならOKというのも(私には)解(げ)せません。
伝説の「起」となった春宮の石鳥居を、下諏訪町誌編纂委員会『下諏訪町誌』の〔石の造形品〕が解説しています。しかし、建立年は、伝説から割り出した「推定万治三年」でした。
一方、諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書 第四巻』収録の『古日記書抜』には
と書いてあります。諏訪神社(現諏訪大社)上社の筆頭神官である神長官の記録ですから間違いないでしょう。延宝3年(1675)は万治三年より15年後のことですから、鳥居の加工が長期に渡ったとしても、案内板の「伝説」から「鳥居に関する記述」が消えることになります。
また、同書にある延宝8年の奥書がある『下諏方社例記』には
とあるので、延宝3年を鳥居の建立年とするのが現実的だと思います。
頭部(顔)は正に取って付けたような造形なので、何らかの理由で、後世の人が頭部を据え代えたことが考えられます。結果として、この表情(アンバランスさ)が現代の“一部の人”に熱狂的に支持されたわけですが…。
その頭部がよくも落ちないものと疑問を持っていましたが、ある日、コケシのように(この写真では見えませんが)胴体に差し込まれた首を見て納得しました。この隙間にたまった雨水などが凍結して、霜柱のように頭部を押し上げる現象が「首が伸びた」として話題になったのはすでに周知のことです。
『下諏訪町公式サイト』の〔生涯学習情報〕[下諏訪町の文化財]では、「万治の石仏」を以下のように紹介しています。
『諏訪藩主手元絵図』は、「五代藩主諏訪忠林(ただとき)が領地の全貌を知るために、享保18年に各村に命じて村絵図を描かせ…」とある、領内百九ヶ村の絵地図です。山・河川・田畑・道路・神社仏閣・家・一里塚・古塚・木樹・大石などが名前入りで描かれています。
左は、諏訪史談会『復刻諏訪藩主手元絵図』から転載した〔東山田村〕の一部です。右端(下之原境)には確かに「ゑぼし石」と書いてあり、(屋根の色を塗り忘れた)家が並んでいます。藩主自らの命で作らせた公式地図ですから、この「絵図に載るゑぼし石」の重みは無視できません。
さらに、削り取られた石仏の背中を推定復元すれば烏帽子状になりますから、まさに「えぼし石」です。そのため、享保18年はまだ「えぼし石」であった可能性があります。
ここに出る「みたらしの石仏」は、『みたらしの石仏の謎』として別ページに掲載したので、興味のある方は読んで下さい。
本題に戻ります。私は、碑文(銘文)にもしっくりしないものを感じています。通常、製造年月日を表示する場合は、元号の後に干支を加えます。万治三年は「庚子(かのえね)」ですから、それを左のように小文字で斜めに入れます。もちろん例外はあるので、これをもって万治を否定することはできません。
次は「万治三年十一月一日」のレイアウトです。右側は、左の写真を、書体は違いますが大きさや傾きを忠実に写し取ったものです。これを見ると、願主とある僧二人の実在はともかく、その上に年月日を彫るのは不自然であることがわかります。何よりも「万治三年」が斜めにズレています。
また、研究者の本では同一筆跡と断定していますが、「万治…」の書体はかなり稚拙ですから同時期に彫られたものとは思えません。このように、総合的に見れば、誰もが「南無阿弥陀佛 願主 明誉浄光・心誉廣春」と「万治三年十一月一日」は別物と思うでしょう。私は、「万治三年」は後世の追刻としました。
ここが分かれ道です。万治三年造立を前提にして一冊の本を書いた人もいますが、私は改ざん説を唱えたので、このようになりました。
「さんずい」と「にすい」の違いです。「万冶の石仏」をネットで検索すると、GoogleとYahooは、トップに「冫」の「万冶の石仏(下諏訪観光協会)」を表示していることに気が付きました。さらに調べると、それを参照したのか、多くのHPやBlogに「治」と「冶」が混在しています。特にBlogで言えることですが、小文字化によるウソ字が一般的なので、点や線が一つくらい無くてもわかりません。
本家本元の下諏訪観光協会が万「冶」ですから、地元諏訪のHPがどちらを採用しているのかをチェックしてみました。
冒頭の「下諏訪町の案内板」と『下諏訪町公式サイト』の〔下諏訪町の文化財〕では「治」です。また、下諏訪商工会議所は「万治の石仏」で商標を登録していますから、下諏訪観光協会は“孤軍奮闘派”ということがわかりました。
下諏訪観光協会と“万治派”の間で何かがあって、「氵」と「冫」を使い分けているのでしょうか。そうは言っても万冶は「まんや」としか読めないし、何より「万治三年」と彫られていますから、「万治の石仏」が正統でしょう。
人は私のことを「重箱の隅を突っつく暇人」と決め込むかもしれませんが、それは無視して、現在ではどうなっているのと再び調べてみました。
現在の下諏訪観光協会のサイトは、リニューアルして「万治」に替わっていました。ところが、「万治の石仏」を商標登録したはずの下諏訪商工会議所のサイト『ぐるっとしもすわ』が、下諏訪観光協会の旧ページを引き継いだ形で万「冶」を使っています。その他、下諏訪温泉旅館組合でも混在が見られました。
ホームページ作成代行業者に丸投げしたままでチェックをしていないことも考えられますが、下諏訪町(民間)には「万治vs万冶」の図式があるのかもしれません。
因みに、Googleで「万冶の石仏」を検索すると、「もしかして:万治の石仏」と注意を喚起してくれます。
Googleで(キーワードを二重引用符で囲んだ)「"万冶の石仏"」を入力して検索すると、そのままの検索結果を表示します。「万“冶”」は令和元年も健在でした。暇つぶしで一つ一つを覗いてみるのも一興でしょうか。
新聞に、「万治の石仏の参拝方法が決まった」と載っていました。「万治」に引っかけて「万(よろず)何とかと唱えながら、石仏の周りを三回廻る」というものです。「下諏訪商工会議所がアドバイザーの提案を受けて」とありますが、こんな安易な創作参拝作法を(何も知らない観光客に)押しつけることに反対した関係者は一人もいなかったのでしょうか。
商工会議所と観光協会にまんまと乗せられて(経緯を知らぬまま)素直にグルグル回っている善良な人々を想像すると、おかしいやらかわいそうやら…。「知らぬが仏」とは、正にこの(踊らされた)人達のことを言うのでしょう。後は、これが“地元の言い伝え”にならないことを祈るばかりです。
4月に入ってから「万治の石像」が検索ワードの上位になっています。何だろうと試しに「万治の石像」で検索すると、気を利かせたGoogleが「像」を(勝手に)「仏」に変換して「万治の石仏」を表示してくれました。私の目的はあくまでも万治の「石像」なので、オプションの「完全一致」を使って再検索をすると…。
トップにブログ『観光|篠田麻里子|AKB48LOVER』が表示し、以下のすべてに「篠田麻里子」の名が見られます。「万治の石像」と書いたこのブログを読んだ多くのファンが「万治の石像って何」と検索した結果が、本家の「仏」を抜いて「像」がトップに立った原因とわかりました。(良くも悪しくも)篠田麻里子さんパワー恐るべし、でした。
それにしても、“万治の石像”で検索しても“万治の石仏”しか表示しないことに頭を悩ませた多くの篠田麻里子ファンがいたのは確実です。篠田麻里子さんより検索ロボットの方が一枚上手ということでしょうが、幸いにも篠田麻里子さんに“バチが当たった”という話を聞かないので、「万(よろず)治まった」ようです。
関係ありませんが、初めて「AKB48」の文字を目にした時、「アー・カー・ベー」と読んでしまいました。もちろん「KGB」と同じ読み方です。
増沢五助著『旧東山田村の史跡散歩』に〔謎の万治の石仏〕があったので、その一部を転載しました。
ここまで、畏れ多くも万治の石仏を何回も突っついてしまいましたが、楽しんでいただけたでしょうか。
万治の石仏が「春宮三之御柱」を見詰めています。ノミの跡が残るという背中が白くなっていますが、雪ではなくコケでした。
『ウィキペディア』では、現在('17.3.21)も「その鑿(のみ)は現存している」と表記していますが、「鑿の跡は現在でも残っている」の誤記です。『ウィキペディア』にはこのような誤りがあるのを散見しますから、丸ごと引用するのは控えた方が安全です。