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「鹿乙明神」と鹿音茶屋 諏訪市神宮寺 '14.8.5

鹿乙明神

 嘉禎三年の奥書がある『諸神勧請段』に、正一位大明神(諏訪大明神)から始まる(くだけた言い方ですが)“神呼び”があります。その中から、「白山権現」に続く「鹿乙明神」の段を、関係する部分のみに絞って転載しました。

鹿乙ノキタノハヤシノスムシワ…
鹿乙ノ明神シヤウシウレシトヲホスラン…
諏訪教育会編『復刻諏訪史料叢書第二巻』

 私には「鹿乙」に振り仮名を付けることはできませんが、読みやすく変換すると「鹿乙の北の林の鈴虫は / 鹿乙の明神終始嬉しと仰すらん」となります。ただし、『諸神勧請段』に載る神名以外のフレーズ「キタノ…・シヤウシ…」は他の神々と共通ですから、「北の林の鈴虫…」などに、鹿乙の説明を求めることはできません。

 いつもの習いで「鹿乙」をネット検索に掛けると、「鹿乙温泉」しか表示しません。それも「その名の由来」を提示していませんから、この『諸神勧請段』だけに載っている「鹿乙」については、どのような神なのかわからないままになっていました。

鹿音茶屋跡

 細野正夫・今井広亀著『中洲村史』〔神宮寺村を行く〕にある記述です。

 辻の西側に鹿音(しかおと)という茶屋があった。鹿肉料理専門で知られていた。(中略) 道の東側には三平茶屋(岩波氏)があって、峠を越える馬方衆で賑わっていた。

 『中洲村史』では「辻」とある交差点に、「旧杖突峠入口の道標」があります。その道標が主題とあって「鹿音茶屋跡」は一部しか写っていませんが、見越しの松(ブロック塀)とバス停の間にある道が「馬方衆が通った杖突道」です。

鹿音跡・杖突峠入口の道標 20.4.14
杖突峠(旧道)入口の道標space「鹿音茶屋」跡

 この鹿音茶屋とされる一画はブロック塀で囲まれた更地ですから、隙間から何かの石碑が見えるという程度の認識で過ごしてきました。

「丸に左十文字」の守矢さん

 今年になって、東京在住という守矢さんから、自サイト『神長官守矢家の家紋「丸に左十」』に「リンクを貼らさせていただきました」とメールが届きました。文面から当人が鹿音茶屋の子孫と知って驚きましたが、鹿音茶屋跡に残る蔵に「丸に左十文字」の家紋があると言うので、まずはそれを確かめることにしました。

鹿音跡 いつの間にかブロック塀が一部取り払われており、中の様子が手に取るようにわかります。その奥まった蔵には確かに「丸に左十字」があり、一目で“守矢さんの蔵”とわかりました。昭和63年の調査では長沢町に4軒の「守矢姓」があるというので、その中の一軒に入るのは間違いありません。

『龍門紀傳 守矢如瓢(もりやじょひょう)

 メールには、参考資料として『信陽新聞』の切り抜き写真が添付してあります。その他に幾つか興味を引く文がありますが、本人の承諾を得ていないので、その記事『龍門紀傳』のみに絞って話を進めることにします。
 「この十篇の文章は、昭和四年六月二十三日夕刊から七月二日の夕刊まで、信陽新聞に掲載されたものである」と説明があります。まず当時の切り抜きが現存していることに驚かされましたが、その中から鹿乙に関する部分を転載しました。

守矢如瓢(一)
 守矢如瓢は諏訪上社神宮寺の旧家なり。其の先は神長官家に出ず。(略)
守矢如瓢(七)
(略) 大政所(おおまんどころ)職を廃止するの止むなきに至りしかば、茲(ここ)に所謂(いわゆる)「長袖」の足を洗いて祖先貞書記義實の所由(しょゆう)を以て法華寺壇徒となり神宮寺村百姓一般の交際をなすに至れるなり。
 しかして以後は大政所職たりし関係を以て上社神饌の第一たる鹿を一手に納入し、副業として神符の鹿肉(ろくにく)を販売し、鹿乙(しかおと)の名を馳せしは古老の皆知るところなり。
 当時神社より特許(とくきょ)されし「鹿食之免 諏訪大祝」とある板木は鹿肉の箸袋に押せしものにて、この板木は往年守矢氏にて土蔵の修繕をなせし時大戸の上より発見せしものなり。
 なお同家には大政所時代の「諏訪上宮御玉会」「諏訪上宮大政所」等の板木十数種を伝来せしが、かかる考古学研究資料を故ありて焼棄(しょうき)せしは惜しむべきことなり。

守矢如瓢(八)

 神宮寺守矢氏の納入せる鹿肉は諏訪神社諸祭典唯一の御贄(みにえ)なるは諸記録記載の如くなるが、往古は四月十五日の酉の祭の如きは御頭郷より鹿肉三百三十貫白鷺一羽其の他種々の供物を納めたるものにて、中世は鹿肉三十三貫となり、現今は僅かに三貫三百匁となり、それさえ年によりては欠乏して他の代品を供するに至れり。
 而(しか)して往古此の鹿肉は斯(か)く多量なりしを以て、社頭にてはこれを塩ゆでとし、神符として一般の参詣者に下げたるものにて既記鹿食の免として箸を出したるはこれが為なり。
 又守矢氏の屋敷神を鹿乙(しかおと)明神と呼べるが、其の祭神を詳らかにせざれど、そのみ贄の鹿に関係あるは推考するに難からず。
 鎌倉時代の上社の諷物(ふうぶつ)『諸神勧請段』中にも所載あれば其の由緒の古きを証すべし。
 その諷物は
鹿乙明神
冬来ると谷川づけし雪氷、雪氷しぐれぞつけし山をめぐりて、
式なれば式をぞはやす式の間に、式のまにしきの蔵置け神もかへまうさよ、
湯蔵こそ神は喜べ湯蔵釜、湯ぐら釜七つならべて湯の花をめす、
湯たぶさを手に取りもちて拝むには、拝むには四方の神を受けて喜ぶ、
鹿乙の北の林の鈴虫は、すず虫は八千代の聲を常に絶えせぬ、
鹿乙の明神しやし嬉しと覚すらん、覚すらんゆきただいまの花の清めよ、
注連の内おもさの鈴を振り鳴らし、ふりならし、たんばのみ神楽参らする、
夜もすがら昼をさやかに遊べども、遊べどもあかぬは神の心あるものよ、
 其の音調の典雅なる往古祭典の盛んなりしを想見すべきなり。
守矢如瓢(九)
 守矢彌平治は鹿乙として鹿肉納入最後の人なり。俳号を如瓢という。(後略)

 この記事には、鹿肉販売をした守矢氏の屋敷神が「鹿乙明神」とあります。ついに『諸神勧請段』の「鹿乙明神」が繋がったとキーを打つ指先に力が入りましたが、…残念ながら「其の祭神を詳らかにしない」「御贄の鹿に関係ある」で終わっていました。
 ここには「鹿音」の名が出てきません。茶屋「鹿乙」の耳伝え「しかおと」が「鹿音」と転化して『中洲村史』に記録されたのか、今となってはわかりません。

天狗山の守矢氏祝神

守矢氏の祝殿 その後に寄せてくれた情報ですが、「鹿乙明神については、(資料には)天狗山の石祠ではないかと書いていますが、一切は闇の中でたどる術がない」と変わりはありませんでした。
 天狗山なら「あの天狗山か」と、自サイトの『諏訪市天然記念物』を開くと、まさに「天狗山の石祠」です。

天狗山のイチイ (抜粋)
このイチイは守矢氏祝神の神木である。この木の根元に二つの祠がある。一つは守矢氏祝神の祠で、一つは天狗を祀る祠である。天狗山の小字名はここからでたものという。
諏訪市教育委員会

 7年前の探訪時には単に「守矢さんの祝神」で終わっていましたから、ここで、その祠が「鹿乙(鹿音)の守矢氏」と重なりました。

昭和37年の守矢牧「小宮祭」 '15.5.13

 再び、守矢さんからメールが来ました。「1962年守矢牧の御柱祭とタイトルがついていた」とある添付写真があり、「牧(まき・巻)は我が家を含めて6軒でした。よく初午の日に持ち回りで当番の家が幟旗を立てて守矢の家が集まり、宴をした記憶があります」と書いています。

守矢牧小宮祭 これで、左の祠が「鹿乙明神」と判明しました。また、「守矢氏ならミシャグジ」と連想しますが、「初午」ならお稲荷さんを祀っていることになります。しかし、諏訪では稲荷とミシャグジが習合している例があるので、どちらとは言い切れません。
 右の祠が木製であることに気が付くと、現在は石祠ですから、イチイの洞(うろ)の中で見かけた朽ちた祠がこの写真のものとわかりました。