龍光山観音院は諏訪湖の西岸「旧小坂村」にあるので、諏訪では「小坂観音院」と呼び慣らわしています。
渡辺市太郎編『信濃宝鑑』から〔龍光山観音院之景〕の枠内のみを転載しました。「明治33年刻」とある銅版画なので、線がシャープです。
右下の部分は、切り立った崖として描いています。以下に出る古絵図も同様に描写していますから、小坂観音の特徴ある景観と言えます。
左図は白枠内を拡大したものです。
江戸時代末期に井出道貞が書いた『信濃奇勝録』に「須波湖」とある絵が挿入されています。
上に観音とあるのが、小坂観音院です。
次は、幕末に編纂された吉田鵞湖編『諏訪八勝詩』です。
左ページに小坂観音院を描き、右に情景を詠んだ漢詩が書いてあります。残念ながら、というか当然というか、…私には読めません。前出の絵と同じように、湖に突き出た岬状に描いています。現在は埋め立てや湖岸の整備が進みましたが、その景観を下写真で表してみました。
小坂観音院の山門には注連縄が掛かっていました。さらに、観音堂とその前の表門にも(左写真)。注連縄は神社だけの“業界用語”ではありませんが、諏訪湖西岸に沿って連なる各神社に負けないその太さには圧倒されてしまいました。
本堂の鬼板を見上げると、そのシンボルとも言える金色の丸板が定位置にありません。ズームを最大にしたカメラを向けると、「なぜ諏訪大社の神紋が」という「諏訪梶」が、片方の止め釘が腐食したのでしょうか、90度左に回転し今にも落ちそうです。その神紋は大棟にもありました。葉の部分は光ってハッキリしませんが、根が「四本」あることがわかります。
本堂正面に廻ると、また“諏訪大社”です。ビンズル(鬢頭盧尊者)さんの頭巾と同じ赤なのでつい視線がそこに止まってしまいました。
本来の目的である「小坂鎮守神社」の帰りに寄ったので、この小坂観音院には予備知識が全くありません。注連縄と共に、“小坂観音院の諏訪大社化”には当惑するばかりでした。
正徳五年(1715)造営とある観音堂全体を撮ろうと、境内の隅ギリギリに立ちました。距離を空けた分だけお腹の辺りに薄ら寒さを感じます。
「シャッターを押す」という当座の行為が完了して空いた間(ま)に身を委ねると、視野の全てに曇り空の彩度不足を感じました。時折背後から駆け抜ける風の後を、まだ色の褪せていない落葉が追い掛けるように舞い上がります。改めて、諏訪ではあと十日で紅葉の季節を迎えることを知らされました。
格子戸から中をのぞき…、とここまで書いて、本尊である十一面観音を拝観したという具体的なことが思い出せません。神紋に気を取られたので、タイミングを逸してそのまま帰ったのかも知れません。この日は、釜口水門から諏訪湖西岸の様々な神社を巡り歩きました。その度に拝殿内や本殿を覗いたので、格子の向こうの記憶が交錯してしまったようです。
岡谷市天然記念物の息も絶え絶えの柏槇(ビャクシン)を仰ぐと、後は退散するだけです。見納めに「天井の木組」を確認しようとストレッチを兼ねてあごを限度まで上げると、何と天井に絵があります。
格子毎に違ったテーマで描かれていますが、その多くは絵の具が退色したり剥がれています。花や鳥・小動物が多いようですが、その中で比較的状態がよい二枚があります。白い顔料に耐候性があるのでしょうか。白い顔の女性と白兎をカメラに収めました。
寺院の境内にも神祠があり、付随する御柱があるのは諏訪の地では珍しくありません。後に調べた小坂観音院に関する資料の「…古くは(諏訪神社)上社の社坊なりしが…」から、観音堂の各所に諏訪大社の神紋が残っている(又は意識して残した)のは、神仏混淆の名残を今に引きずっていると解釈しました。また、本尊の観音様は年に一度(5月3日)の御開帳なので、見た記憶がないのも当然でした。
境内には、「武田信玄公側室・諏訪御料人」とある供養塔がありました。「御料人」を読み飛ばしても良いのですが、気になった私は『goo辞書』で調べてみました。
平易に言うと「諏訪の奥さん」でしょうか。それにしても、本人の名前ではなく代名詞で呼ぶのは何故でしょう。
男系を前提にした系図では、身分の上下や年齢に関わらず、女性は全て「女」として処理されているそうです。戒名は残るそうですが、それでは生前の名前は分かりません。武田信玄の正室でも本名は記録になく、実家の名を冠した「三条夫人」となっています。小坂観音院の諏訪御料人は、諏訪家から側室に上がったので諏訪+御料人としたのでしょう(か)。
名前が残っていないので、小説家が“名付け親”になります。(1998年にNHK大河ドラマ化された)『武田信玄』の原作者である新田次郎さんは「湖衣姫」と命名しました。小説(の活字)と違い、テレビでは“中井信玄”が「こい」を連発したので、「鯉」と思われた方も多いのではないでしょうか。かく言う私も、初めは(諏訪湖の鯉も有名なので)「鯉姫」と信じていました。
一方、『風林火山』の井上靖さんは「由布姫」と名付けました。「九州由布院の由布岳からヒントを得た」と何かで読んだ記憶がありますが、それは別として、来年の大河ドラマが『風林火山』と決まったことで、現在は由布姫の方が優勢になってしまいました。私は、諏訪出身の新田次郎さんのファンですから「湖衣姫」を推しますが…。
小坂観音院には、由布姫の名に惹かれて多くの人が供養塔の前に駆けつけるそうです。その後に、供養塔の右にある「由布姫由来記」を読むことになりますが…。後半にある「『風林火山』に著されております」に留意しないと、とんでもないことになります。「小説の中では」と断っていますが、その石碑の設置場所と紛らわしい表現から「由布姫の墓」と早とちりをしてしまいます。
このサイトでは、由布姫の墓ではなく武田勝頼生母の供養塔として書いています。今や、ドラマの中に登場する架空のお墓に詣でる人もいる時代です。その世界に浸るのは一向に構いませんが、「小説縁(ゆかり)の地として昭和38年に新しく建立した供養塔」ということを忘れないようにしてください。
高島城※は「浮城」と呼ばれ、かつては石垣を諏訪湖の波が洗っていたそうです。それが今では大小様々な建造物の中に埋もれ、高台でないと指を指せません。そこで、「高島城が見える小坂観音院」はコピー通りなのか、自分の目で確かめることにしました。まず、その方向が望める場所探しです。
表門の下から、諏訪湖の遊覧船が係留されている場所をアンカーに、右方向へ注視のポイントを移動させます。“シルバーアイ”を意識してから久しいのですが、その対極となる遠目にはまだ自信があります。城郭らしき三角屋根を見つけ、ズーム最大のカメラで確認すると、…高島城でした。各種建造物を大波小波に見立てれば、現代版浮城とでも言えそうな高島城が出現しました。
3月9日の新聞に「小坂観音院に由布姫の看板」の見出しがありました。顔の部分に穴が開いた記念写真用のパネルですから、この場合は「看板」とは言いません。それはともかく、記事には「岡谷市と地元の小坂観音観光委員会が設置した」とありますが、おそらく委員会独自の“安易な発想”でしょうか。
平成24年2月に立ち寄ったら、由布姫は、寒風が顔を吹き抜けているのにも関わらず一人でジッと立ち続けていました。供養塔の近くにあるので“場違い”も甚だしいのですが、彼女に責任はありません。ただ、着物が汚れていないのに救われました。
この場所は境外と思われる展望台脇なので、小坂観音院としてはクレームの付けようがないのでしょう。それに、地元の観光協会ということもあります。
新聞で、10月25日「本堂が修復 小坂観音院で落慶法要」と報じていました。工事は「屋根の葺き替え(銅板)と床下の耐震補強、向拝柱と階段の取り替え、床板張り替えなどを実施。鐘楼と山門の屋根も葺き替えしたほか、境内の雨水を排水する側溝を整備し、凹凸になった敷石は詰め直した」とありました。
修復後の写真を撮るために、久しぶりとなる観音院へ出かけました。「記事と写真の通り」なので説明は省きますが、壁の一部など傷んだ箇所も補修してありました。旧写真と“距離”があって見比べ難いのですが、修復前の写真と同じアングルにして載せました。
天井の「格子絵」は、と仰ぐと相変わらずクモの巣が張ったままです。法要が行われたのに掃除もしなかったのか、と不思議でした。年の瀬になると、社寺の「すす払い」が季節のニュースとして報じられますから、掃除は「年一回」と決められているのかも知れません。または、絵の具の剥落の危険性があるのでそのままにしたことも考えられます。
知らずにいれば目に入りませんが、表門前から、狭く急な踏み跡のような道が下に向かっています。
その先が麓のどの道に通じているのかは全く分かりませんが、取りあえず九十九(つづら)折りの急坂を下りてみました。最後は民家の軒先をかすめるような、その前を通るのが気が退けるような細道を抜けると、麓の車道にあっけなく飛び出てしまいました。
御神渡りを小坂観音院から撮ろうと、今日は、徒歩では近道となるこの道から上ることにしました。すっかり整備された道に不審を抱きながら登ると、見馴れぬ標柱があります。読んでみると、…小坂区が建立した「古道跡」でした。
車道が整備される以前の表参道とばかり思っていたのは、「地元民専用参拝道」でした。