里山辺にある「山辺学校歴史民俗資料館」に展示してある地図の一部ですが、読みにくいので関係するものを併記しました。「昭和5年作図」とある地図では「宿世結神社」で、一点鎖線の境から、鎮座地は「里山辺の旧林村」になっています。現在でも境界は変わっていないはずなので、「宿世結神社が現存していれば林側にある」となりました。
同じく、正式名『長野縣東筑摩郡里山邊村村社千鹿頭社 境内及境外山林并附近鳥瞰図』の一部です。「添付圖面 五」昭和五年(千鹿頭社昇格申請)と注釈があります。コピー品ですが、管理者の許可を得てカメラに収めました。
絵図に「亀ヶ峯」を□で上書きする作業の最中に、『信府統記』にも見える「亀ヶ峯」が「なぜ亀なのか」が納得できました。「宿世結の神」の右側にある祠が「目玉」に見えたからです。その流れでは「うらこ山」と「亀ヶ峯」の表記が入れ替わっている(誤記)と指摘できそうですが、その話は置くとして、「宿世結」は昭和5年の地図と絵図には確かに存在していました。
実は、千鹿頭山にある結神社を参拝した日に林側の麓から亀ヶ峯を仰いでいました。絵図では「逢初川」と書かれた辺りですが、目を細めても何も見つかりませんでした。その時は、場所が特定できていない・傾斜が急・シャツが背中に張り付きっぱなしの暑さ・昼飯抜きという状況もあって、藪の中に入る元気はありませんでした。
左は、上図の「宿世結の神」の部分を拡大したものです。一昨年の探索では藪で覆われていたので断念しましたが、まだ芽吹き前という日を選んで、その祠がまだ存在しているのかを確認することにしました。
梅の花は咲いていても気温は低く強風で何度も帽子を飛ばされそうになった一日でしたが、「何かを発見する」という目的の前では一向に苦になりません。
里山辺(旧林村)側から見た千鹿頭山です。絵図から亀(亀ヶ峯)の首辺りにあると踏んで、駐車場にした林側の参道入口から、山裾に沿った道を尾根の先端に向かいました。
尾根の最鞍部の向こう側に屋根が覗いています。位置的に見て、神田千鹿頭神社の社務所とわかります。そこから右手に目を転じると、労なく石祠を見つけることができました。「宿世結」の神祠でしょう。
祠の前に、誰が手向けたのか柄鏡が置いてあります。しかし、道端の表示板に「廃棄物を捨てるな」を読んでいたので、その残物を誰かが供え物として置いた可能性もあります。迷いましたが、撮影には邪魔になるということで、傍らに立つ木の根方に空いた洞(うろ)に移しました。
身舎(もや)の側面に「林村・宝暦十庚辰年(1760)・七月建」と読めます。その他には何も刻まれていませんが、改めて宿世結の神を祀った祠と断定しました。
周囲には注連縄・中には幣帛の残闕さえもありませんから、すでに祭祀の対象になっていないかもしれません。それでも刈り払い程度の手入れはされているようで、この周辺はこざっぱりしていました。今しばらくは道路から会釈することもできますが、膨らみかけた芽が大きな葉に替わる頃には藪の中に埋もれてしまうという現状を憂いながら帰途につきました。
平成の世における宿世結神(宇良古比売)の評価はともかくとして、江戸時代に石の祠を造った人達が確かにいたことが認でき、その250年後にネットでその写真を紹介することができたことで大きな満足を得ました。
宿世結の神については、すでに幾つかの史料を紹介しています。さらに、「宿世結の神について、昭和五年の『千鹿頭神社昇格願書』の中には、以下のような記述が見られ、興味深い」と解説がある山辺学校歴史民俗資料館の展示史料『宿世結神社』を新たに転載しました。読みやすいように、ひらがなに替えてあります。
冒頭の絵図に「神田屋敷」があったことから、この標題をまとめとして 加えました。まずは、長野県『長野県町村誌 中・南信篇』〔中山村〕から転載した一文です。
“公文書”では、旧神田村の由来を「神田(しんでん)→神田(かんだ)」としています。
それはそれとして、私は『諏訪藩主手元絵図』に注目しました。左は、千鹿頭山の側方にある書き込みを切り取ったものです。
間違いを恐れずに解読すると「古代地頭神田治部太輔やし記(屋敷)・神田屋敷畑」となり、この時代の地名「神田屋敷畑」は「昔、地頭の神田治部太輔(かんだじぶたいふ)の屋敷だった」と解釈できます。
こうなると、広大な屋敷と田畑があった「神田(かんだ)屋敷畑」が村名の元になった可能性が出てきます。しかし、松本在住の方なら即座に該当する人名を挙げることができるかもしれませんが、私は相変わらず途方に暮れることになりました。
いずれにしても、冒頭の「神田屋敷」とこの「神田屋敷畑」が神田村の語源と言えそうです。