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蘇我氏の故郷「近つ飛鳥」 奈良県・大阪府

當麻寺

 當麻寺(たいまじ)の山号にもなっている二上山(にじょうさん)が後方にそびえているが、境内からは、その特徴ある双耳峰は見えない。

うつそみの 人なる我や 明日よりは
 二上山(ふたかみやま)を 弟(いろせ)と我が見む

 この万葉歌に惹かれて初めてこの地を訪れたのは、昭和57年の大晦日だった。當麻寺門前の広場の隅に車を止めると、あとはする事もなく、ぼんやりと灯りが乏しい通りを眺めた。時折、どこからともなく現れる人影も足早に消えて行く。居場所のない自分を、明るく暖かな年越しのシーンが責めた。

 寒さと人恋しさに、一軒だけ明かりを漏らしていた食堂に入った。始めは明るかった店内も、年越しソバが出来上がる頃には、目が慣れたせいか暗く感じた。
 国民的番組を映しているテレビに一人顔を向けている自分を、後方からもう一人の自分が俯瞰している光景が浮かぶ。片隅の、そこだけ華やかに動いている小さな世界を除くと、古びた椅子や机・調度品と一体となっているその旅人の周囲は時間が止まり、今年最後の色に染まっていた。
 募ってくる悲しいほどの侘びしさに、「旅を栖(すみか)とす」一日芭蕉の気分だと強気になってはみた。しかし、空になった丼を前にする一人だけの客ではここは居心地が悪く、冷えきった車に戻り、寝袋に潜り込んだ。

 車の脇を通る二年参りの人々が発する声や除夜の鐘で目がさめた後はなかなか寝付かれなかった体調だが、寒さで心身とも引き締まり、予定通りに元旦の二上山に登った。冒頭の歌が、大伯皇女(おおくのひみこ)が、処刑された弟の大津皇子を埋葬したという二上山を詠んだものだったからだ。
 しかし、その山頂は予想外の人であふれ、悲劇の姉弟を偲ぶには到らなかった。

近つ飛鳥

當麻寺再び

 一人だけの拝観は、全く落ち着かなかった。宝物殿を出て歩き始めると、それを待っていたかのように背後で扉を閉める音が聞こえ、夕暮れが迫る當麻寺の閑散とした境内を一層寂しくさせた。
 門前の土産物屋をのぞき、具だくさんの「和路うどん」を食べてから、當麻寺の駐車場で見つけた案内板をたどって、「町営たいま温泉」に飛び込んだ。
 千円札を出し、お釣りをもらおうと待つが、ロッカーの鍵と浴衣を渡すと後は知らん顔。それにしても鍵とは大げさなと思いつつ、ひょいと上を見ると「町外の人は千円」とある。もう少しで、「お釣りは」と催促するところだった。早い話がヘルスセンターのようなもので、単なる立ち寄り湯ではなかった。
 終了間際にも関わらず割引もなかった。

叡福寺(えいふくじ)

 日本初と言われる官道「竹内(たけのうち)街道」は、「国道166号」と名を変えた。そのすっかり格が下ってしまった道を、濡れ髪を、少し開けた窓から流れ込む気のせいか春の匂いが感じられる夜風で乾かしながら、太子町へ向かった。峠からは大阪府だ。
 夜桜も鮮やかな叡福寺に着く。門前にゴミが散乱しているのを不思議に思ったが、「今日が聖徳太子御法会の最終日」の看板に目が留まれば、納得すると共に「ウーン残念、一足(日)違いか」と悔やむしかない。

 翌朝、すでに清掃作業が始まっていたが、まだあちこちに紙屑が残る境内を歩き回った。太子縁の寺といえども、このゴミの山だ。一万円札から引退したので、影が薄くなったとも考えてしまう。
 白砂を踏みしめ、聖徳太子廟の前に立つ。この御廟は、太子と生母の間人(はしひと)皇后・夫人の膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)を共に葬った「三骨一廟」で、被葬者が分かる珍しい例といわれる。しかし、太子と言えば、斑鳩の法隆寺が真っ先に思い浮かぶので、大阪府のここがお墓と言われてもピンとこない。

磯長谷

 叡福寺がある磯長谷(しながだに)は、太子を始めとした蘇我系の天皇や、石川麻呂・馬子・入鹿など、歴史の表舞台で興亡した蘇我氏の故郷だと思うと、これから始まる「近つ飛鳥」探訪に胸が熱くなる。境内の隅にある松井塚出土の家形石棺をスタートに、最初の一歩に力が入った。
 春真っ盛りの史跡巡りは汗ばむほどの陽気に恵まれ、何処でも歓迎してくれる桜に歩くのが楽しかった。
 磯長谷と呼ばれているこの辺りには、敏達・用明・推古・考徳陵と名だたる古墳がある。何れも宮内庁管理の天皇陵とあって、整備されているが見学できない古墳だ。鳥居を隔てて小山を眺めるのみだが、一応、義務的に立ち寄った。
 この附近から西の方に、かなり高いタワーが見える。訊くと、PLの大平和記念塔と言う(後に、“祈”念塔と知った)

 小野妹子墓がある科長(しなが)神社では、甘酒のサービスがあった。普段は敬遠するが、歩き疲れていたこの時は喉に染みた。
 山田の集落を気持ち良く歩く。それも、蘇我倉山田石川麻呂の墓と伝えられる横口式石棺がある仏陀寺を最後に車に戻った。この時は「なぜ石川麻呂の墓なのか」と疑問をもったが、後に、ここの「山田」の地名と近くを流れる「石川」を結びつけてみると、石棺の立派さと共に納得できた。

南河内

 太子町から富田林市に向かう。羽曳野丘陵の南に「お亀石古墳」があるからだ。この古墳を道路地図で見ると、PL(パーフェクトリバティー)教団大本庁の敷地内にある。もう近いという辺りは公園(桜丘遊園)で、満開の桜のもとでは花見客があふれ返っていた。

PL教団

 教団の正門前は、何かの行事があるのか車の列が出来ている。その中に紛れ込んだ。ウーン、守衛がチェックしている。前の車は会(団)員証らしきものを見せて次々に通過していく。当然引っ掛かって車を脇に寄せられたが、自分には大義名分がある。「古墳を見学したいのですが」と地図を指しながら説明すると、「ここではありませんよ」と、親切心あふれる顔と言葉で詳しい道順を教えてくれた。
 さすが宗教団体のガードマンだと感心しながらガイドブックを広げると、ここは「正殿・脇殿・教祖奥津城・芸生殿・錬成道場・PL学園・病院・PLランド(遊園地?)・ゴルフ場等」とあった。

お亀石古墳

 目的の古墳は覆土が無く、むき出しの石棺の上に立つと、まだ緑の少ない丘陵越しに教団の鉄条網が見え、奈良の開かれた天理教会本部と比較してしまった。

番外の国宝巡り

 応神陵がある古市古墳群の中に、野球場(藤井寺)の方がピンとくる葛井寺がある。駐車場が無いので路駐としたが、道中を含め取り締まりに怯えながらの参拝となった。ところが、千手観音像(国宝・天平時代)は「毎月十八日のみ開扉」ということで断念。道明尼寺の十一面観音像(平安時代)も、門前に「国宝拝観できます」と大きな看板があるにも関わらず、入り口は閉まっていた。ここを拝観すれば、「国宝の十一面観音像は全て会えたのに」と残念だった。

 仁徳天皇陵を含めた古市近辺は、かつて五月に来た時は静かにまわれたが、今回はどこへ行っても人の波と駐車場難だった。しかし、補って余りある桜だ。次は桜井神社拝殿(国宝・鎌倉時代)と欲張り、堺市へ向かった。

昭和61年4月

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 その後、古さでは竹内街道に劣らない、一つ南の水越峠(国道309号)を奈良から越えてみた。大阪側の赤坂千早村は「太平記」の舞台の一つだが、当時は中世の歴史に興味がなく、「ここがそうか」という程度で素通りした。
 「国宝の旅」ということで観心寺や金剛寺の文化財を見る目的は達したが、展示品に南朝関係の資料が豊富だったのを今思い返し、改めて南朝や楠正成縁の史跡をじっくり歩いてみたいと思うようになった。