宝塚古墳の名は、各地に点在する。文字通り宝がザクザクというイメージだが、埋蔵文化財と総称されるこの手の骨董品は、自分を含めた好事家にとってはまさしくお宝で、宝石や貴金属より価値がある。
標題の「佐味田(さみだ)」はこの地の字名を冠したもので、発掘当時は36面の鏡が出土したという。子供の頃に血湧き肉躍らせた「宝島」の金銀財宝に勝るとも劣らない、緑青に覆われた宝鏡の余りの多さに、これは何が何でも見に行かねばと古墳探訪リストに加えた。
この日、奈良の古墳巡りは馬見(うまみ)丘陵から始まった。乙女山古墳や巣山古墳などの代表的な古墳を見てから、気になっていた佐味田宝塚古墳に向かった。
ガイドブックにある「案内がないと分かりにくい」も、案内標識があったことから、「何とかなる」と丘陵を縫う道に車を進めた。しかし、ススキが左右から覆い始めボンネットでかき分けるようになる。結局、「こんなところに養魚場が」という場所で墳丘に立つことを断念した。
ネットから、最新かつ6250分の1という詳細な地図を手に入れた。それを携えて勤労感謝の日を含めた連休初日に現地に乗り込んだ。ところが、道路だけの地図では、その周辺を走り回るだけとなった。
仕方なく、反対側にあたる「葛城台」からチャレンジした。真新しい住宅に羨望の目を向け、新築工事に携わる工務店の駐車車両を呪いながら奥に向かった。
「突き当たったら右に曲がって最奥の」という、ここしかないという場所に車を駐めた。折良く出会った子供達に地図を指し出して「現在位置」を確かめると、車道からは再接近地であることが確認できた。
しかし、地図上では目の前だが、そこは灌木や藪で覆われたただの丘陵だ。この地ではまだ「新来者」である子供を含めた新住人や工事関係者には「まだ未知のもの」だから、尋ねても首を振られるのは間違いない。
分譲地の東限に沿ってフェンスが張り巡らされているが、その隙間にわずかな踏み跡を見つけ、強引に丘上のやや平坦部に立った。しかし、それまでで、野バラの痛みと丈は低いが夏の間に絡み合った藪に立ち往生した。
古墳を眺めたりその上に立ちたいという、少し見つめる方向が違ってしまった自分。そのために時間とお金を割いた結果、所在地不明で目的を達することができなかったことが何回あったことだろう。今回も、奈良まで来て何をしているのかという、焦りと悶々たる鬱積の彷徨となっている。
結果を出すため、古墳の反対側につながる団地の縁にあたる道を歩いた。丘を切断するような切り通しを下ると、この団地の住民のために設けられたと思われる新しい公園があった。その前から左の丘陵の底に消えているのが、かつて、ススキに阻まれて立ち往生した古くからの道のように思えた。
右に下る舗装路を歩くと、くたびれた葛の葉が覆い被さった案内板があった。「佐味田宝塚古墳」だった。その前に立ってみれば、これまでの経緯が「あっけない」と変わるほど唐突な登場だった、
しかし、1メートルを超す縦に密生した笹と、それを補強するかのように左右に複雑に絡み合う葛のツルに阻まれては、一歩も踏み込むことができなった。
多くの金と時間を掛けた割りには、墳丘に沿った道から眺めるだけとなった国指定史跡と「宝塚」とは名ばかりの藪山だったが、10何年間のモヤモヤはこれで青空となった。
藪で覆われているのでどこまでが全長百メートルとある前方後円墳か分からないが、その向こうの木々を透かして葛城台の三角屋根が見える。自分の背後はわずかな畑が散在するだけの丘陵だから、古墳を挟んで開発と未開発がせめぎあっているような景観となる。近い将来、大規模分譲住宅街の中にポツンと宝塚古墳が残る風景が見られるかもしれない。
平成13年11月
令和二年の今思えば、葛城台団地から野バラに引っ掻かれながら登った丘が墳丘だったように思える。当時はこんな時代が来ようとは夢にも思わなかったGoogleマップで確認すると、確かに佐味田宝塚古墳に立っていたことが判明した。
急にこみ上げてきた懐かしさに、たまらずストリートビューで追走行してみた。しかし、家が建ち並び、その間に木々の緑が窺われるだけだった。