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何の因果か四回目 埼玉県行田市「さきたま風土記の丘」

稲荷山古墳出土「辛亥銘鉄剣」

 今日は、振替休日の月曜日。休館日は火曜になるからと、「金象嵌銘文入り鉄剣」を見に「さきたま風土記の丘」へ出かけた。

 人通りは多いのだが資料館の前だけは閑散としている。広がる不安が「休館日」の表示で決定的となったが、それでもドアの前に立ち、館内の照明が消えているのを見てようやく諦めた。振り替え休日を自分に都合良く解釈したのが情けなかった。
 大小の古墳の間を縫う遊歩道を巡ったが、春の休日を楽しむ家族連れや若者のグループが多く、古墳そのものに興味がある自分の存在が場違いのように思えた。

 稲荷山古墳は、前方部がきれいに削平されていた。案内板には、後世の土木工事に使われたとある。たまたま現場に近い前方部が削られたのか、それとも埋葬部があると分かっていた後円部を避けたのか。当時の「現場監督」の故意か偶然か、結果として埋蔵文化財を保護し国宝を誕生させた判断にも興味がわく。奈良の大和郡山城のように、古墳の石室を始め墓石や地蔵まで石垣に組み込んでしまう時代だったからだ。
 鉄剣が出土した礫槨(れきかく)と粘土槨は、後円部の墳頂に雨風対策として覆屋、対人間として金網に囲まれて保存されていた。全国民から脚光を浴びた剣に比べ、被葬者の埋葬部は古墳の規模に比べ貧弱に思えた。

 丸墓山古墳は日本最大の円墳で、「長径100m高さ16m」とある。前方後円墳の仁徳天皇陵・前方後方墳の西山古墳(奈良天理市)・方墳の鬼の岩屋古墳(千葉房総風土記の丘)はすでに見学済みだから、これで主な種類別古墳ナンバーワンは全て見物(見学)を果たした、と「ランク付け」にこだわる自分にとっては一つの区切りとなった。

 風土記の丘を完全に分断している県道に抵抗するかのように丘同士を繋ぐ横断歩道があり、その信号機の脇に一軒だけ土産物屋がある。この一帯が整備される以前からあったと思われる古びた店構に、この店の歴史にも大いに興味をそそられた。全くの独占販売で多くの客が出入りしているが、古代史関係の書籍が置いてあるのが一般の観光地と違っていた。

長靴おじさん

 二ヶ月後にようやく念願がかなった。「金象嵌銘文入り鉄剣」は、他の展示品との格の違いを強調したような専用ガラスケースに収まっていた。一周りしてから、小さな字で「レプリカ」とあるのに気が付いた。レプリカとは模造品のことで、悪く言えば偽物だ。
 数人のグループが現れた。その中の一人が、「現在鉄剣は東京へ出展中。これは模造品だが制作費は七百万円かかっている」と仲間に説明している声が聞こえた。文化財のレプリカが高額なことを知り、「これは話のネタになるぞ」と気落ちした心も少し収まった。

 小雨の中、新しく仕入れた情報を基に近くの「地蔵塚古墳」に向かった。ところが、後から長靴を履いたおじさんがついてくる(その頃は、まだ人のことをおじさんと言えた)。どうも目的地が同じらしい。
 この古墳は「馬・水鳥・武人などの線刻画を見ることができる」とあるが、持参の懐中電灯で照らしても柵越しでは全く分からない。ここで「長靴おじさん」と、どちらともなく「見えないなー、残念」と声を掛け合うことになった。同好の士と親近感を覚え、以後「同行」することになった。

 きっかけは忘れたが、万葉集の話になった。

韓衣(からころも) すそに取り付き 泣く子らを

置きてぞ来ぬや 母(おも)無しにして

 この歌は、母を亡くした子供達を置いてきた父の嘆きがストレートに伝わってきて心が締め付けられる。残された子供はどうなったのだろうと向けると、当時は母系社会だから母方で面倒をみた、とやけにくわしい。話が盛り上がり、湿って不快だった靴も気にならなくなった。

 工業団地の中を通り、次の目的地「八幡山古墳」に着いた。墳丘は削られ石組みが露出している。山川出版社『埼玉県の歴史散歩』には、「関東の石舞台と称されるように、緑泥片岩・砂岩からなる石室はじつに大きい」とある。
 しかし、現地での説明文では「想像復原された石が多く使われている」とあり、その大きさと規模の輝きは一気に褪せてしまった。振り返ると、彼は公民館の前にある石碑を熱心にのぞき込んでいたが、自分はその類には興味がないので気にも止めなかった。

 電車で帰ると言うので、それでは駅まで送りましょう、と引き返した。信号待ちの間に、「私こういう者ですが、近くに来たら遊びに来て下さい」と名刺を渡された。何と、「埼玉大学文学部助教授」とある。
 万葉集関連のテレビ番組に出演するので下調べに来た、と言うのである。運転手という立場から赤面した顔は見られずに済んだが、ド素人の話に率直に応じてくれたことから、そう悪い印象は持たなかったはずである。なにしろ、当時は万葉歌に興味を持ち始めた頃で、誰でもいいからその話をしたかった。それに、先生は長靴を履いていた。

東歌

 その後、三回目の挑戦でようやく会えた鉄剣は、記憶にある模造品と“そっくり”だった。「俺も執念深いな」と、今日に至るまでの過程に感慨を抱いたが、本物を前にしての感激はなかった。「ひょっとすると今でも本物は金庫の中か。いや、製造コストからいえば当時と比較しても同程度か、むしろレプリカの方が高いのではないだろうか。何れにしても、どちらが金庫に入っていてもおかしくはない」と、真贋に対する興味が自己問答となって続いた。

 気になっていた八幡山古墳へ今日は車で寄ってみた。その後の調べで、「長靴おじさん」が熱心に見ていたのは万葉歌碑と知ったからだ。碑には二首の東歌が刻まれていた。

足柄の み坂に立(た)して 袖振らば

(いは)なる妹は 清(さや)に見もかも

色深く 背なが衣は 染めましを

み坂給(たま)らば まさやかに見む

 自分の意志に反し九州まで行かされた人々の苦しみに比べれば、車で長野から埼玉まで三度往復した苦労は、たちまち「ご苦労さん」の一言で片付いた。足柄がどの方角に当たるのかわからないが、一つの山並みに目を凝らすと、かつて確かに存在したであろう「二人」が千有余年もの時空を超えて鮮やかによみがえり、歌碑の前に立ちつくすばかりだった。

何の因果か、「今日で四回目」

 また来てしまった。所属していたサークルの「筑波の旅」のコースに組み入れられていたのだ。

 現在、完全に整備された稲荷山古墳は、埋葬部が埋め戻され、レプリカの礫槨と粘土槨の位置だけが示されている。覆屋もなくなってしまった。

昭和57年