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縄文の祈り「大湯環状列石」 秋田県鹿角市十和田大湯

 「今日は朝風呂」と予定していた、男鹿半島大桟橋(だいさんきょう)有料道路の中間点にある 「保養センター男鹿桜島荘」に乗り込んだ。ところが、人ごとのような表示「入浴は十一時から」に、誰も見ていないが、ぶら下げたタオルのやり場に困ってポケットに押し込んだ。
 すごすごと戻ると、まだ九時だというのに、駐車場の照り返しの熱気が追い打ちをかけるように体を包んだ。

 それでも、半島最突端・入道崎の広々とした芝生に座って海を眺めているうちはまだ良かった。食堂で熱いジャッパ汁の昼食をとり、炎天下の焼けた車に乗り込み、第二候補の男鹿温泉では頼みの観光案内所は昼休みで誰も居ず、風呂だけ入れるところはありませんかと聞きまわり、ますます身体に張り付くTシャツと熱を持ったサンダルに、不快感は限度を超えた。昨日は、山形の温海(あつみ)温泉へ入ろうかと迷ったが、渋滞で遅れたからと先を急いだので、二日も風呂にありつけていない。

 諦めて、明日登る八甲田山へのルートを確認するために道路地図を開くと、見覚えのある文字が目に入った。「そうだ、大湯温泉がある。ストーンサークルの資料館(収蔵庫)も見学できるではないか」と、今朝寒風山で知り合った二人連れから聞いた「完全な直線道路が延々と続く」八郎潟を横切り、能代(のしろ)・大館(おおだて)を経て大湯へ向かった。

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 昭和60年5月。まだ東北自動車道は十和田・碇ヶ関(いかりがせき)間が未開通で、盛岡を過ぎると、夜ということもあって上り車線を含めてもめっきり車が少なくなった。終点で降り、十和田湖方面の標識を確認して大湯へ向かった。

 初めての長距離の疲れを共同浴場の熱い湯で洗い流してから、途中で確認した分岐点まで戻り、大湯環状列石(ストーンサークル)を目指した。しかし、最初の交差点には標識が無く、あちこち迷った末に道路沿いの空き地に車を入れた。そこが、大湯環状列石とある史跡だった。

 暗闇の中、全景は定かに見えないが、それは不気味に存在していた。網目からのぞくと、金網に封じ込まれたかのようによどんでいた闇が、人間の出現を察知してか、一瞬のうちに消え去ったかのように見えた。余りの畏怖に、ゆっくりその場を離れた。
 周囲には小さな収蔵庫と離れた所に無人のみやげ物店があるだけで、あとは畑である。車を収蔵庫の横へ移動させた。少しでも現実の人工物に囲まれていたかったからである。缶ビールを一気に飲み干し、「縄文人に取り憑かれるのもいいか」と覚悟を決め、寝袋にもぐり込んだ。時折通る車の灯りが頼もしかった。

 「無事」目がさめた。夢の中に彼らは現れなかった。起き抜けに、五月の冷えた空気に包まれているフェンスに沿って一周すると、遺構内のまだ丈の低い草に宿った露が、斜めに差し込む光にあちこちで輝いた。その、これから大きく伸びるであろう生命力旺盛な雑草に囲まれて、くたびれて横になったような石が並び、立石は殊に所在無さそうにたたずんでいた。昨夜の、あの夜行性の獣のような存在感、あれは夢だったのだろうか。

 道路をはさんで、環状列石はもう一ヶ所あった。説明板によると東に野中堂遺構・西に万座遺構とある。コーヒーを飲みながら両遺跡を改めて眺めると、想像していたより規模が小さい(写真等は比較できるものが写っていないと頭の中で徐々に成長してしまい、現実とのギャップに大きく失望することがある)
 しかし、この不可思議な石の集合体の「闇」の顔を自分は知っているのだ、と持ち前の興味が増々そそられた。

 台地を下り、昨夜とは別の浴場で朝風呂を浴びて戻ると、片方の遺構に小型のショベルカーが入り整備をしていた。資料館は開館まで時間があるので、諦めて十和田湖へ向かった。

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 二度目で勝手知った道を台地上へかけ上がる。前回迷った交差点には標識が設置してあった。駐車場には数台の車が並び、昼間の熱気が残る夕方の遺跡を観光客が三々五々見学していた。
 最近、遺構内の土の分析で高等動物特有の脂肪酸が発見されたので墓地との説が有望になった。しかし、個人的には祭祀場で、新月の夜、縄文人が松明のゆれる火に照らされた列石の周りで妖しく祈っている光景を思い浮かべてしまう。

 資料館は、地元の人だろうか、年寄りが二人受け付けをしていた。館内は余り見るべき物はなかったが、もう二度と来られないと思っていたからやり残しの仕事を片付けたようだった。

平成2年8月