ガイドブックは「JR五能線・陸奥森田駅から徒歩5分」と書いているが、道路地図には「森田村歴史民俗資料館」はなかった。
標識につられて役場へ寄った。「案内図でもあれば」と期待したからだ。その類はなかったが、日曜日にもかかわらず正面入り口が開いている。
森田村が「最低限度の住民サービスを」と張り切る村なのか・単に当直者の暑さしのぎなのか、よそ者には分かる由もないが、とりあえず奥から顔を上げた男性の存在にひとまず安心した。
資料館の場所を「おらほの湯」とあるパンフ裏の地図に書き込み、さらに詳しく説明してくれる彼に「これだけ分かればもう安心です」と引き下がった割に道を一つ間違えてしまった。しかし、そこはカーナビ装着車の強みで、引き返すこともなく適当な道を選んで一回りすると教えられた道に合流することができた。
合成皮革のスリッパを、素足で履く気持ち悪さを知っているだろうか。最近は真夏でも靴を履く習慣が多い中、自分はTシャツとショートパンツ・素足にスポーツサンダルが旅の定番になっている。
この快適さだけを追った究極のスタイルの敵が、このツルツルしたスリッパだ。自分の足と、不特定多数の人が使用したスリッパのどちらが汚いかの議論。または、原因が自分の足の汗にあるのを分かっている上でスリッパを責める理不尽。それらを棚に上げても、やはり素足で履くにはかなりの抵抗がある。歩く度に足の裏が粘りながら滑る感触がたまらなく不快だが、駐車場まで靴下を取りに行くのも面倒だった。
年輩の男性職員が机に向かっている。その顔を上げさせることは、もうすぐ昼を迎えようとする彼の平穏な時間の流れを妨げるような気がして、声を掛けるのがためらわれた。
来館者名簿から、ここを訪れる人の少なさが知れた。おそらく今日一日の唯一の収入である金200円也と引き替えに展示室の扉を開け照明を点けるという一連の動作を見ていると、ここへ来たのは間違っていたのではないかと妙な罪の意識を感じた。
実は、直前に訪れた木造町縄文住居展示資料館「カルコ」も見学者は自分一人だけだった。来るとも知れない人のために維持管理する、損得勘定だけでは成り立たないのがこの手の施設だが、自分(または、わずかな入館者)のために一日中冷房を効かせ、受付の若い女性(とは限らないが)が待ち受け、展示物が喜んでくれると考えると贅沢な気分になれる。
この資料館だが、「縄文式土器が多数」という予備知識があったが、館名に「民俗」が加わっていたことから期待はしていなかった。ところが、入館してすぐに、壁面と中央部の展示品が全て「縄文時代一色」だったのには驚いた。
それでもケースの隅には古文書をコピーした小さなパネル等が遠慮がちに置かれ、一応「民俗」の面目を保っていた。改めて眺めると、土器は壁面に沿って整然と並べられ、中央部の展示ケースは土偶や石製品・玉類・ヒスイの耳飾と、この時代としては内容が豊かだ。個別の土器に注視すると、復元の技術が高いのが見て取れた。
展示室まで足を運んでくれた彼の説明で、ここは「石神」と名付けられた一つの貝塚から発掘された遺物展示のために造られた資料館ということが分かった。規模は小さいものの、断続的にBC5520(円筒下層)からBC3940(円筒上層)続いたとあり、何れも±140とか90とあるから、放射性同位炭素で測定したのだろう。
重文の「人面土器」は、同じ「顔」でも私が住む諏訪地方の見慣れた顔面杷手とは違い、第一印象は「バルタン星人」もしくは「ザリガニ」だった。「これが目でここに歯がある」と説明されても納得できなかったが、反論もできなかった。「所変われば品変わる」で、見慣れていれば違和感がないのだろう。
土器の色も同じで、石川県能登の真脇遺跡では茶褐色ではなく灰白色の土器が多いのを、「こちらでは土が違うのか」と問うと不思議そうな顔をした。青森県の三内丸山遺跡でも、土偶の足の断面が表面から2ミリ位は白いのだが内部の墨で着色したような黒さに、「焼け具合の違い」と片付けられた。これは、後に、土器片が鉛筆代わりになるほど大量の黒鉛を混ぜた土器もあることが分かったが…。
改めて見回すと、多くが円筒形の土器であるのに気が付いた。彼の説による、「幾代にも渡って伝承された円筒土器文化の伝統」が確かに感じられた。また、冷房代わりの換気扇では排出できないこの館内にこもる真夏の熱気と独特の匂いも、縄文の残留エネルギーと空気のように思えた。
案内された収蔵庫のガラスケースの中には、重文や県宝と表示のある土器が隙間なく「押し込められて」いた。指定を受けると、収蔵庫では棚に裸で置くことができないらしい。
何か見せたい物があるらしく彼の後に従った。奥まった収蔵庫の一角で白いカーテンをまくり上げると、赤褐色の壺が並んでいた。一目で彼が焼き上げた土器と分かった。驚いた。まさか(自分も村に住んでいるが)青森の森田村という片田舎で、土器作りの仲間に会えるとは夢にも思っていなかった。趣味だという窯や野焼きで焼き上げた土器は、形状と表面の仕上げからかなりの技術力と器用さが読みとれた。
質問の連続に彼も何か感じたらしく、お茶でも飲みながらと事務室に通された。出されたアルバムの内容から、各地から展示や作成の依頼が多いのが読みとれる。青森県では土器作りの名手(士)らしい。話の内容から復元に関してもエキスパートと見受けられた。
問うと、「館内の土器は60%は自分が復元した」と言う。復元作業の煩雑さは分かっているので「大変だったでしょう」と向けると、「(習熟するのに)25年かかった」と返ってきた言葉に重みがあった。これだけ復元すると土器の編年も自然に頭に入るし、この土器は同一人物・この土器は明らかに女性、と作り手まで分かるそうだ。「土器の一部で全体の形が分かる」と豪語するのも納得できた。
彼の縁者らしい女性が「顔パス」で友人を連れてきた。それを潮時にし、礼を言って立ち上がった。気になっていた合成皮革のソファーを確かめると、腿の跡が二つ汗となって濡れている。さりげなく指先でこすってごまかしたが、しっかり見られてしまった。
「収蔵庫も見ていいですか」と声をかけたのが発端だった。単なる資料館巡りが、陸奥の夏に負けないほど輝き非常に思い出深いものとなった。
平成7年7月