from八ヶ岳原人Home/原人昔話メニュー/

神の庭「荒神谷遺跡」 島根県出雲市斐川町神庭

荒神谷遺跡、その夜と朝

荒神谷(※平成5年の記録なので、現在の状況とは異なります)

 ヘッドライトに浮かび上がる小さな標識だけを頼りに、ようやくたどり着いた。駐車場は、資料館前の公衆電話から漏れる小さな灯が頼もしく思えるほどの、遺跡を間近にひかえた独特の闇が支配していた。

 目をあけると、弥生の闇はすでに退散していて、いつもの平成の光が車を包んでいた。まだ意識に霞がかかっているなかで、車内にわずかに残っている昨夜の空気を感じながら、休日の当然の権利である微睡(まどろ)みを楽しんだ。
 「そろそろ起きなければ」と、何回決心しただろうか。ようやくまぶたの筋肉に力を入れ、左右に頭を巡らせてガラス越しの空を見上げた。予報が確約していた五月晴ではないが、駐車場の周囲は木々の若い緑に覆われ、朝日に柔らかく輝いている。

 湯が沸くまでの時間を利用し、周囲を散策した。「荒神谷遺跡へ」の標識を太陽の下で改めて確認し、昨夜、夜目にもシルエットから復元住居と分かっていた弥生の竪穴住居を眺めた。それは真新しく、わかっていたらこの中で寝たのに、と本気で思ったほどの「弥生風藁葺土敷ワンルーム住宅」だった。
 張られたばかりなのか褐色に濁っている水が広がる田の土手には、スギナやキンポウゲの黄色い花が見える。

 旅においても休日の「朝一番」としてすっかり定着してしまったコーヒーだが、手許に新聞がないのが寂しかった。
  その中で改めて見回すと、ここは国道9号からの導入路が地形上の入口という、山に囲まれた隠れ里といったような窪地だ。それでも不規則な形の田が何枚もあり、畦も整備され田植も近い。

line

 (あくまで成り行きだが)夜夜中に遺跡や史跡を徘徊する機会の多い自分にとって、闇は、原始の世界へ一気に距離を詰める最高の「触媒」ではないか思う。闇は単に闇で、それ意外の何物でもないのだが、それが「古代人の宴の跡」を包むと、辺りは急速に変わり始める。白日の喧噪が遠ざかるに従い、代わって舞い戻った古の空気に彼らのざわめきが伝わってくるように思える時がある。

 昨夜、遺跡の方角を示す道標の傍らで、「とうとうここまで来た」と長年の思いが現実になった喜びと安堵感に浸りながら目を閉じると、時期(間)外れの一人だけの訪問者に興味を持ったのか歓迎したのか、古代の諸々の精霊が肌にまとわりつくような感覚に、何千年も昔にタイムスリップしたような心地がした。
 この自分の一方的な感覚や思い込みの世界は、限りなく本物に似せて造られたレプリカのように、疑似と本物の区別はつかなかった。しかし、今、緑に包まれた弥生の谷に吹く風は、乾いていてそっけない。

line

 左の山際を、一人者の気安さからゆっくり歩き、谷というよりちょっとした丘の窪みの上部へ向かう。標識は「荒神谷遺跡へ100メートル」とあったから、急ぐ必要はない。
 史跡公園として整備され、田圃から「古代蓮池」と名前だけが変わってしまったような池は、「古代」とうたっているからには、あの「大賀ハス」が植えられているのだろう。しかし、枯れた茎が延びるのみで、去年の花(柄)は重い首を折って水に浸けている。その中でも、疎らではあるが、まだ赤味を残している広がりかけた小さな幼葉が水面に顔を出している。

荒神谷遺跡

 小さな栗の木を透かして、遊歩道を区切る杭やロープ・案内板が見え、苦労することなく遺跡に着いた。道路地図を見る限りは、道もない山裾の、名前だけは全国に知れ渡ったが「・」で表示されただけの史跡に、車で行けるのだろうか駐車場はあるのだろうかと心配したのがおかしいほどだった。

 余りにも整備された環境に拍子抜けしたが、とにかく自分だけの荒神谷遺跡が、今、目の前に広がっている。しかし、写真やテレビで見慣れた風景がオーバーラップする、朝の斜光に輝いている現実の「荒神谷遺跡」の真ん前に立っているのが何か不思議だ。

 ガラスで覆われていない巨大な展示品を前に、吐く息が白い。ゴールデンウィークとしては寒い日が続いているが、ウグイス・ヒバリ・カエルがそれぞれ春を唄っている。
 記録するために時計を見ると、「まだ」というか「もう」というか七時半を回っている。車をねぐらとする孤高の単独旅行者の一日は、朝早く夜遅いのである。

 説明板には、衛星・航空・遠景・現地の各写真が順に並んでいる。遺跡の所在地が簸川郡・斐川町・大字「神庭」字「神庭谷」とあるのが面白い。これを一発で読める人は、地元民を除けば、キーボードの横に置きいつも世話になっている金田一先生(辞書)くらいか。

 この遺跡は、地形とすれば何の変哲もない只の凹地だ。その斜面に露出した、本物の遺構は30センチ下にあるという茶色のレプリカの土に、これもレプリカの銅剣と銅矛・銅鐸が置かれている。発掘時の状態に置かれた緑青色の遺物は凹地を挟んだ遊歩道から対面できるが、人目がないことを幸いに、「立入禁止」とあるが、登ってくれと言わんばかりに存在する板に棒を打ちつけた梯子に上り、それぞれのレプリカを間近に見た。
 目測で30度の意外に急な斜面は、崩落防止に表土は樹脂で固められている。このアイデアはよい。覆屋で保護されていても、長い年月に霜柱ですっかり崩れた遺構を多く見ているからだ。

 銅剣の一年後に発見された銅鐸6個・銅矛16本は整然と置かれ、その左側7mの位置から先立って発掘された銅剣358本は、四通りのブロックのうち、右の二通りは切っ先を右に向けて並んでいる。三通りと四通りは交互に置かれ、三通りの最後(下)の4本は左向きで、最後(四通り目)は34本と半端な数字だ。
 100本の組を三通りに置き、四通り目に残りの58本を置いたということではなく、適当な穴の大きさに、適当な数で並べられ、最後に余ったのが34本との印象を受けた。

 警察の鑑識ではないが、現場の状況から、あれこれと想像するのも面白い。数には無頓着のようだが、並べ方から判断すると余り急いだ形跡は感じられない。置き方の違いから、左の二通りは別人が置いたとも考えられる。「一般美学」では、たとえ数は違っていても見た目に四通りが揃うように並び換えるのが自然だ。掘り返す可能性が全く無いのが分かっていたのだろうか。
 現場監督も部下に任せっきりだったか、それとも居なかったのか。夜埋めたのか、はたまた一部が横流しされたのか、盗難にでもあったのかとますます空想は広がる。
 この配列・数にこそ重要な意味があるとも受け取られるが、地形的には、古墳のように支配地を見渡せる地でもなく、里から誰もが指を指せる象徴となる場所でもない。人目に付かない隠された土地、と言うのがぴったりの谷だ。ここでまた地名の「神の庭」というのが改めて浮上してくる。神聖な場所、というのも当てはまるからである。
 「こんな物が出ると困る」と、佐原眞さん(国立民俗博物館副館長)が嘆くのもうなずける。説明が全くつかないからだ。

 一人の男性が現れたのを機会に、駐車場へ戻った。資料館は開館時間前とあって見学を諦め、出雲市内へ向かった。

 前回訪れた時には存在しなかった、出雲文化伝承館と(只の体育館だった)出雲ドームも見なければならない。四隅突出型方形墓もこの機会に見学したいし上淀廃寺もある。
 単独旅行者故に、思いつきやその時の状況でクルクル変わるスケジュールだが文句を言う人もいなく、気楽ではあるが忙しい一日が始まりそうだ。

平成5年5月