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原人の昔話「北の古代史」 北海道

カプセルの中から観察する「フゴッペ洞窟」 余市郡余市町

 車窓から流れ去る民家や商家の間を通して、石狩湾の砂浜と波が見える。「さすがは北海道。敷地も広い」と妙に納得していたが、考えてみればただの田舎だった。視野の右隅に、大きくなりながら消え去った「洞窟」の文字があった。
 路肩に寄せてから振り返ると、水滴がしきりに伝うガラスの向こうに「フゴッペ洞窟」の大きな角柱があった。北海道の土地柄か、ゆったりした車間が切れ目を作らせずUターンができない。その苛立ちに、道路地図では道の左側なのにとボヤく。

 国道沿いに、丘陵が函館本線に分断されているため、そこだけ取り残された様な小山がある。その「中」に小さな資料館があった。しかし、それを目の前にしても、しばらくの間考え込むほど雨風が強かった。傘は役に立ちそうもないと判断し、風下の助手席側から受付に向けて突進した。

 「資料館の入口が洞窟の入口」だった。その開放厳禁の扉を開けると一面ガラス窓で、その向こうには岩肌が見える。巨大な展示ケースと言いたいが、ここではケースに入っているのは人間である。はやる気持ちを抑え、まず反対側にある説明板を読み壁に掛けられた発掘時のパネル写真を見る。この写真はいい。洞窟の形状が分かるからだ。今では資料館がギリギリまで内部に侵入し、洞穴内にいるとはとても思えない。展示ケースには、見(聞き)馴れない「後北式」と表示された土器や石器類が並ぶ。

 さて、案内書にある「カプセルの中から観察する、日本(で)只一(つ)の古代人の洞窟」とは、実際に現場に立たないと分かりにくい表現だが、洞窟の入口を資料館そのもので密閉し、内部に張り出したガラスのハウスから洞窟内を見るというと理解してもらえるだろうか。

 自動的に説明を始めるアナウンスの「番号」に従って見学する。一面ごとに、ガラスを通して見える壁面に対応した図が分かりやすく表示してあり、比較しながらかなり間近に観察できる。
 照明を受けた岩壁に、地層に沿った凹凸のある岩の表面に線刻が無数にある。低部の方が刻みがシャープだ。堆積物で風化を免れたのだろう。部分的に苔で緑に染まった岩肌が神秘的だ。動物や舟・魚も見受けられるが、X・Y・¥・*やムカデ状のものがほとんどで、平均十センチ程の大きさで刻まれている。角や翼のある人像は動物仮装人物と説明しているが、何とも不思議な形だった。

忍路環状列石 小樽市忍路町

 「忍路(おしょろ)」と書かれた小さな標識が見える。しばらくして現れたトンネルの名も忍路だ。そのトンネルの直前、並行する線路の向こう側に白い板に書かれた黒い文字が見えた。一瞬の事で判読できなかった。しかし、トンネルを抜けた後は道路際まで迫る山が続くことから、あれが目的の案内板だったのは間違いなかった。

 Uターンする。それと確認した標識を右に見て、対面間近になった史跡を目指す。ほどなく現れた集落の中で、史跡を表示した古ぼけた板が見つかった。左手の「小屋」が資料館とあり、「説明書が必要な方は向かいの店でもらうように」と書いてある。
 そのためだけに存在するのかと思えるような小さな雑貨屋の奥から顔を出したのは、おばあさんだった。市から委託されているからと、住所氏名を書かされて手にした「小樽市の文化財」には、環状列石は南北33m・東西22m、大石は直径1〜2m・高さ1mとある。

 右を指している標識に「列石はこの店の裏」と予想したが、入った狭い道はすぐに広く新しい道・広域農道に突き当たった。道の向こう側に、新しい標識が「右・地鎮山巨石記念物」「左・忍路環状列石」とある。左に折れると今度は「右へ行け」で、50m先は「今度は左」だった。グルグルまわって忙しかったが、しっかりした標識のおかげで不安はなかった。
 幹線道路の入口に立派な標識はあっても「後は知らん顔」が多い中、これはうれしい。しかし、標識毎に道幅は狭くなり、ついには、左を指すその先は草に覆われた一車線の道が山に向かっている。「後悔しない内に」と歩く事にしたが、通りがかりのおばさんに挨拶して確認すると、「車で行ける」と言う。指さす所に、言われてみればそれと分かる石が見える。わずかな距離だがせっかくの言葉なので車を乗り入れた。

 山(丘陵)際に、片側を畑に囲まれて、意外にも明るくそれは存在していた。暗い林の中にひっそりと石柱が並ぶイメージをずっと抱いていたから、肩すかしをくった感じだった。写真の露出がアンダー気味だったのに加え、「史跡」の性格から、神秘=暗いという安直な連想で「忍路環状列石」の固定観念ができあがっていたのだろう。

 国指定史跡にも関わらず、傾いた境界のコンクリート柱や弛んだ鎖の冊、更に足の浮いた説明板に、荒れたというより忘れられた遺跡との印象を受けた。
 まず、道路に沿って全景を眺めた。中に踏み込むと、松とニセアカシヤが数本立つ内部にも細目の石が数本立っている。中心部から時計の針のように「外輪石」を眺めながら一回転してみた。これだけ規模が大きいと、環状列石の名が実感として捉えられる。
 地図で確認した北西側に、その方角が重要なのか「いかにも立石」という大型の石が揃っている。他方は資材・労力不足なのか「とりあえず」という感じだ。これは現代人の見方で、当時の人々にとってはかなりの土木工事であった事は想像できる。

 案内板には「本格的な発掘が行われず測量・基礎調査のみ」とある。言い換えれば「手付かず」という現状が、日本最大のストーンサークルであるこの史跡周辺をも荒れさせているのだろう。もっとも、その恩恵を最大限に受けたために「中へ入り、石の頭を撫でる」ことができたのだが。…裸足でも歩ける芝生から、ロープ越しに遺跡を見るのは味気ない。

 フゴッペ洞窟でも見かけた若い男の二人連れが、時間が無いのか「さっぱり」帰っていくと、一人取り残されたようで車に戻った。遅い昼飯のパンをかじったが風が強く車がゆすられる。白い乗用車が現れた。年配の男性はかなり興味があるらしく、この強風下でも立石の一つ一つをじっくり見て廻っている。ところが、助手席に座ったままの奥方は一向に無関心で、手を口に持っていっては口を動かし続けていた。

 現地に来て存在を知ったもう一つの史跡は、農道から10分位登った地鎮山の頂にあった。1m前後と思われる9枚の扁平な石が楕円形(長軸10m短軸8m)に立っている。丁度、岡山県の盾築遺跡の小型判と言ったところか。隅に、コンクリートで囲われた一辺2mという方形の穴があり、底は河原石が敷き詰めてある。説明板では墳墓とあった。

手宮洞窟「古代の文字よ」 小樽市

 小樽市内を手宮に向かった。いよいよ謎の古代文字である。道路の崖際に「手宮洞窟」の標識があるが、「駐禁」なので手前の交通博物館に肩代わりをお願いする。
 その前に立つと、何と、洞窟の覆屋が更に工事用の覆屋に覆われている。修復中とある資料館の完成予定図はあるが、道より一段低い入口をのぞき込んでも鉄骨の間から屋根が見えるだけ。市立博物館に複製が展示してあるとの説明にまずは一安心だ。

 小樽市内も風が強かった。その顔とも言える運河沿いの石畳と街路灯は、作りが新しくて古びた倉庫群とマッチしていない。そこに群がる観光客と一絡げにして「チャラチャラ浮いている」とケチをつけてしまうのは、地味な史跡ばかり足が向いてしまう者のヒガミだろう。

 石造りの倉庫を利用した博物館は、「いかにも小樽」といった風でなかなか良かった。さて、本題の「古代の文字よ」だが、洞窟状に再現した展示方法は評価するが、「古代の文字」はどう見ても岩の襞にしか見えない。風化が著しいとあるが、「見ようと思えば見えないでもない」という程度で全く期待外れだった。「あの『小樽の女(ひと)よ』の作詞者は現地を見ずに書いたに違いない」と怒っても、島崎藤村という偉大な先輩がいるから非難は出来ないか。

※ 島崎藤村の「椰子の実」は、島崎が柳田国男から伊良
湖で椰子の実を拾った話を聞き、それを元に作詩した。

音江環状列石「北国の春」 深川市 音江

[史跡・音江環状列石]稲見山山頂に大小42のストーンサークルがある。

 旭川の一つ手前・深川インターを降りる。石狩川畔にある先住民穴居住居跡を見てから、大ざっぱな道路地図を頼りに音江に向かった。旭川市にある博物館の開館時間前に、一見物も二見物も稼ごうという訳だ。

 道路際で水路の手入れをしていた農夫に「音江ストーンサークル」への道を尋ねた。彼が言っていた「峰の上」には、丁度車一台分の幅の道が一直線に続いている。その急坂をゆっくり上る。今日も風が強いが、それでも身体に届く陽射しは充分春を感じさせ、足元の若草と共に北の大地を踏みしめる感触が心地よい。

 5分ほどで傾斜が緩くなると、尾根筋のなだらかな斜面に沿った広場が現れた。奥行きは100m、左右は30m位か。黒い石の集まりが何箇所か草からのぞいている。
 歩きながら見渡すと、石に囲われた大小十余りの円形の窪みが見られる。中央部にある二ヶ所の遺構が比較的原型に近いように思われる。径5m程の、大小様々な、説明では偏平に割って加工したとある石に囲まれた内側はやや凹んでいる。石と石の隙間はほとんど無く、境界を設けたと言うより内部を封じ込めた感じが強い。麓の案内板にあるように、「祭祀跡ではなく縄文晩期(二千年前)の墓である」との説明には納得できる。

 横に倒れている石の一つに腰を下ろした。一人旅の常で、目を閉じて遥かなる北国の人々にコンタクトをとろうとしたが、二千年の時空の前には、大きく息を吐く事しかできなかった。視線を空に移すと、これだけは確実に追体験できる、北国の先住民が毎日振り仰いだであろう雪を被った手塩の山並みが春霞にボーッと浮かんでいた。

 振り返ると、まだ短い草の間から頭だけを出している乱れた石の配列に、去年の落ち葉が戯れるように駆け巡っている。周囲をとりまくニセアカシヤと白樺は、遠目にはまだすっきりした冬姿で、枝を通して雪を被った山が望まれる。近づくと、白樺は小さな葉を広げているが、この強い風の影響も受けず梢は余り動かない。笹だけが音を立て、なびき、うねっていた。

 次に神居古潭(かむいこたん)へ寄ったが、こちらはささやかなストーンサークルだった。

平成2年5月