ガイドブックの「久留米・柳川」の項に、特別史跡・基肄城跡と書いてあるのが目に留まった。特別史跡? 文化財でいうなら国宝の事ではないか! 「特別」とか「限定」「◯大なんとか」の様なランク付けされた事物に弱い自分にとって、これは見逃せない。詳細文を読み始めると、「水門跡」の文字が気になった。以前より、一度は見たいと思っていた朝鮮式山城の石の水門だ。
道路地図を広げた。縦(南北)の九州自動車道と横の長崎・大分自動車道が交わる鳥栖ジャンクションの北西、福岡と佐賀の県境にある基山(きざん)の横に城の凡例がある。さっそく、オレンジのマーカーで印を付けた。更に『歴史散歩・福岡』を調べたが、どうも佐賀県に属するらしく載っていない。生憎この県は購入してないので、詳細が分らない。まあ、「特別」だから現地へ行けば何とかなると気楽に構えた。
平戸見物の帰り、鹿児島へ向かうのに昼間高速道路を走るのはもったいないと、夕方までの何時間かを基肄城見物にあてた。
去年訪れた吉野ヶ里遺跡の東背振インターの次・鳥栖インターで降り、基山町から山に向けて走った。途中の瀧光徳寺では何かの記念式典らしく、多くの幟や旗が立てられていた。その手前で、黒の法被を着た人に車を止められた。「バスが来るから待て」と言う。交通整理係の彼に「基肄城はこの道でいいか」聞くが、下りてくる車が気になるらしく取り合ってくれない。参詣帰りの大型バスをやり過ごす。
傾斜が急になった道を、人が群がる草山を右手に見ながら進むが、すでに峠らしき所を過ぎたのに標識がない。パラボラアンテナがある小山の前からは下りだ。「さてどうしたものか。ここは焦っても仕方がない」と車から降り、一服代りのパンをかじった。振り返ると、先ほどの草山から続く尾根が眼前に広がっている。
若い二人連れが現れた。彼の方に「基肄城はどこ」と尋ねると、向いの草山を指して「あれがそうですよ」と教えてくれた。ついでに水門の場所も尋ねると、一旦有料道路に戻りインターを一つ入り直すことがわかった。「助かりました」と礼を言い、彼女の方にも会釈をすると可愛い笑顔が返ってきた。
先ほど素通りした山が基山で、駐車場の一番奥に「特別史跡・基肄城」の案内板があった。県立自然公園でもあるため、夕方だというのにまだ賑やかだ。土が現れているため、なかなか滑らない草ソリに悪戦苦闘している子供達の間をぬって、山と言うより丘を登るが、西日の暑さと運動不足がたたって息が切れた。
日が傾くと、人影も疎らな広い尾根筋に残る土塁を吹き抜ける風に寒さを感じ始めた。初日の、同じ朝鮮式山城である大野城巡りは、麓の太宰府の存在が終始華やかな気持ちにさせたが、同時代の城でもここは何か「辺境」というイメージで何か侘しく、尾根からやや下った佐賀県側の遊歩道は完全に日が陰っているため、めっきり色が少なくなった世界に季節は五月だというのに冬枯れを感じた。標識に導かれ、林間にある礎石群の中に踏み込んではみたが、水門の事が気になり落ち着かなかった。
料金所が中間点にあるため、「無料」となった有料道路を一区間進み、再び基山を目指した。途中で農作業の女性に聞くと、この道を真っ直ぐ行けという。幾つかの集落を過ぎると、ここも祭なのか、旗と幕で飾られた寺の前で「工事中・通行止」の看板とゲートに阻まれ、立往生してしまった。ゴミを燃やしている白い法被を着た檀徒に聞くが、知らないと言う。取りあえず車を置いて徒歩で上に向かったが、新築工事中の塔の前で道は終っていた。焦りが体の芯を圧迫するのを感じながら引き返した。
小さな雑貨屋の裏に少女を見つけたので、不審者と思われないように近づいた。小学六年生位か、足に包帯を巻き松葉杖をついているのが痛々しい。期待はしていなかったが、よく知っていて詳しく教えてくれた。その明るい顔に、時間に追われている心が和んだ。早く治るといいね、と喉まで出掛かったが、何か照れくささを感じ「ありがとう」と礼だけ言って車に戻った。
牛小屋の横で左折したがすぐに道幅が狭くなった。「車は置いていった方がいいよ」との言葉を思い出したが、「時間がないから」と自分に言い訳して集落の中に車を進めた。何回か曲り、後悔し始めた時はすでに一車線で、対向車の現れない事を祈るばかりだった。
草刈機の音に負けない様に大声を掛ると、ようやく若者が振り向いてくれた。「この先で道が広くなるからそこへ車を置き歩いて行け」と教えてくれ、「Uターンもできる」と、こちらの不安が分っているように付け加えた。話の途中で、恐れていた対向車のクラクションに進退窮まって、車を納屋の農機具の間に突っ込んだ。
話の通り、舗装も新しい道路脇に車を駐めて歩き始めると、「特別史跡・基肄城水門跡」の案内板を見つける事ができた。
薄暗い山道の左側に、「四角い穴」が開いているのを除くと、ごく普通の石垣があった。現在は、沢は水門ではなく、石垣の右端で山際の崩れた箇所に流れが変わっており、その事が千三百年の時の移りを感じさせた。
黄昏が加速をためらっているわずかな時間をついて、水門の周囲をあわただしく歩き巡った。一足早く青い闇に支配された石組みの隙間からは古代の息吹が湧き出すように見え、新羅・唐の侵攻を恐れて造られた城の一部だという形象化した歴史を前に、深く息を吐くことしかできなかった。
半島や大陸からの脅威に備えた人々が存在したという証が、確かに、山や林の中に土塁や礎石・石垣・水門となって残っていた。それらに染み着いた残留思念が東国の私を呼び寄せたのだろうかと、勝手に防人の子孫になりきっている自分だったが、違和感はまったくなかった。
結局、この場所に至るまで自分に関わった人々は6名となり、特別史跡としては標識が不備な基肄城は、その苦労を考えると確かに「特別」史跡だった。
平成2年5月