朝から、いずれも「まえばる」と読む福岡県前原市の前原遺跡と伊都歴史資料館、福岡市博物館の「特別展・装飾古墳の世界」と、弥生から古墳時代にどっぷり浸っていた。
後半は、「3年前休館日で見学を果たせなかった春日市埋蔵文化財収蔵庫と、石室内見学可能と情報を得た竹原古墳へ」と計画を立てたまでは順調に進んでいた。しかし、福岡市の渋滞は郊外まで網を張り、時間だけがその目を規則正しく流れて出て行くという現実の前に、なす術もなかった。
見覚えのある交差点を右折すると、ごく自然に甦ってきた記憶の糸に導かれ、迷わず春日市埋蔵文化財収蔵庫(以後、埋文庫)の前に立つことができた。以前(平成3年5月3日)、埋文庫が道路から一段高い位置にあったために見逃し、この界隈を何回も周回(ウロウロ)して得た地理学習効果が残っていたらしい。
ところが…、何と、またもや休館日。入口の案内板をよく見ると「月曜日・祝日は休館」とある。前回は「祝日」の文字を確認しなかったばかりに、平成6年5月5日の今日も「自車の轍を踏む」という情けない結果となってしまった。
今思えば、発掘中の前原遺跡の捨土から「記念に」と持ち帰った石英質の小石だが、それを水洗いした時に指を切ったのがケチのつき始めだった。その帰りには通り雨に会い、雨宿りで貴重な時間をムダにし、今、渋滞を振り切っての結果がこの様で、かなりのストレスがたまってしまった。
翌朝の再挑戦は、余裕の8時半だった。9時の開館時間を待つより、それまでに須玖(すく)岡本遺跡を見学したい。現地の地図でもあれば分けてもらおうと、すでに開いていた受付に向かった。ところが、女性職員の「収蔵庫を開けます」という幸先よい申し出に、滑らかに回転する今日一日が予想できた。
窓から車の「松本」ナンバーが見えたらしく、もう一人の女性職員が、「懐かしい」と出てきた。生まれも育ちも松本と言ったが、「異郷の地で」と言うと少し(かなり)大袈裟だが、一人旅ではこんなささやかな縁でも嬉しいものだ。
弥生時代の高床式倉庫をイメージしたらしい切妻屋根の収蔵庫は、二階が展示室になっている。九州の資料館・博物館の例に漏れず、ここも、展示品は甕棺(かめかん)で始まる。縄文王国である長野県は、まず縄文式土器のオンパレードで、弥生がほぼなくて奈良・平安というのがパターンだから、初めはかなり戸惑った。
「日本一」ではないかという、一の谷遺跡の重量100キロを越すという甕棺、青銅器・ガラス勾玉の鋳型が珍しい。ここで知った須玖岡本遺跡出土のガラス勾玉と小玉だが、貸し出し中ということで写真のみで終わった。
縄文時代一色の中部高地に住む者にとって、銅鐸を始めとした青銅器には強いあこがれがありロマンがある。その「期待の」というか、目当ての、水道工事中に発見された原町出土の銅戈(どうか)48本は圧巻だった。多くは腐食しているが、長さ40センチ前後の青銅器は横一列に並べられ、迫力満点だ。
この大量の武(祭)器が造られてからこの地に埋められるまでの経緯は想像すらもできないが、それが確かに目の前にあり、時代とすれば最新の今、それを見ている自分の存在が不思議なものに思えてくる。
一通り見学し、再び銅戈の展示ケースの前で溜息をついてから、平成の世に戻った。
時間前に開けてもらった御礼を、と引き返すと、先ほどの職員がコピーした地図を用意して待っていた。さらに、埋文庫の裏側から街を見渡せる場所まで案内し、付近の史跡までの道順を詳しく説明してくれた。
一人旅では、一日中話を交わさずに終わることも珍しくない。つい余分なことしゃべって、取り繕うことに苦労してしまった。
渡された住宅地図のおかげで、迷うことなく熊野神社に着いた。石段を上りきった境内にある舞(拝)殿の横に、それはあった。移築されたドルメンの上石だ。偏平な蒲鉾型に整形された3.3m×1.8mの大石は、発掘された大量の鏡とともに、説明文通りの王墓にふさわしい。しかし、現地保存でないのが残念で、遺物の散逸も惜しまれた。
祭神には失礼にあたるが、ついでに神社の絵馬を見た。昭和32年岡本子供中奉納の「赤穂浪士の討ち入り」がある。28年奉納の「池上の小橋の上で見得を切る二刀流の使い手」とくれば、(記憶違いでなければ)清水一学だ。しかし、この赤穂四十七士と、敵に当たる吉良の用心棒の相反する絵馬に、岡本町がどう関わり合っているのかは謎に終わった。
予定にはなかったが、先ほどの職員の熱心な勧めにドームまで足を延ばした。地図の縮尺から判断すると神社の裏で、すぐ近くと思われる。徒歩でのんびり坂を上ると、開けた丘陵の最上部に今一つイメージのわかなかったドームが二つ、久しぶりに晴れ上がった光に白く輝いていた。三角窓の天文台が二つ、といったところだ。
6月開館という径10m位の上部がキャンバス製の白いドームの内部を、閉まっている入口の窓から覗いてみた。周囲の手すり付きの見学道の下に、多数の土壙(どこう)があり甕棺の口がこちらに向いている。
遺跡の一部を、発掘時の状況で保存したものだった。福岡市のエアコンまで入った金隅遺跡のミニ版と言ったところか。むき出しの赤土は、もちろん化学保存処理をしてあるのだろうが、さすが暖地九州である。長野県では、霜柱で一冬も保たないだろう。
しかし、このドームがないと、この下におびただしい弥生時代の墓があるとは、公園として整備してあるだけに信じられないだろう。発掘時は甕棺墓116・木棺墓9、その他土壙が多数というこの遺跡は、推定300基の墓があるという。
春日市の銅戈は、9本(二ヶ所)・10本・27本とまとまって出土したが、いずれも銅戈のみなのが不思議だ。また、青銅器・ガラス製品・鏡と各鋳型の出土と、もらった冊子の「ごあいさつ」の冒頭の部分にあるように、「春日市は弥生銀座」が実感できる。そういえば埋文庫の下も弥生の墓地だそうだ。
平成6年5月