「ハワイへ行ってきた」と書けば「ニューヨーク──入浴」と同じような話とバレバレだが、本当に行ってきた。車で…。
鳥取県東伯郡羽合町(はわいちょう)には、「ハワイ海水浴場」や「ハワイ道路」など、アメリカのハワイに便乗した施設がある。まずはその一つ、東郷湖畔にある日帰り温泉施設「ハワイゆーたうん」の驚くほどゴージャスな湯に浸かった。
次は、長瀬高浜遺跡だ。ところが、「ハワイ風土記館」の標識に釣られて右折したのが運の尽き。さんざん迷った挙げ句の果てに行き着いたのが、展示物が皆無に等しかった「伯耆(ほうき)ロマンの里・馬ノ山公園」と名が付いた、早い話が五階建ての展望台だった。
(勝手ながら)話は昭和61年とさかのぼる。ミカン畑の中の狭い道に後悔しながらも、橋津古墳群では最大規模の4号墳まで訪れていた。
それが公園として整備され、今この場所から見下ろしていることに気が付けば、“何かの意識”に導かれてここまで来たと思ってしまう。
その超常現象はともかく、「入場無料」に加え、思いがけず橋津古墳群の全貌を鳥瞰することができたので、「アン」が取れたラッキーという結果になった。
直近の国道に合流してみれば、山陰の大動脈9号線脇にある、道路地図※にも載る橋津古墳群を訪れていたのは自然な流れで、「呼ばれた」のではなく、単なる偶然と知った。
いよいよ、長瀬高浜遺跡である。
ところが、現地で探し回った結果、長瀬高浜遺跡はすでに埋め戻され、ヤシの並木が続くハワイ道路と下水終末処理場の下と知った。「出土品は県立博物館か」と諦めた時に、標識「羽合町歴史民俗資料館」が目に入った。
役場の敷地内にあるその小さな建物には、「公民館祭りで無料」の案内がある。それもあって、展示物の内容に期待することはなかった。
ところが、最初のフロアーで度肝を抜かれた。壁際に、家型埴輪三点を挟み、左右に朝顔・蓋・盾・甲冑型埴輪が対に置かれている。その計九点の堂々たる埴輪群は、長瀬高浜遺跡の出土品だと一目で理解できた。
何れも完形品で、ライトアップされた赤褐色のオブジェの重量感に圧倒された。「文部大臣 海部俊樹」と署名が入った重要文化財指定書がさらに重みを増している。収蔵品の予備知識がなかっただけに、「これは凄い」としばらくの間見入った。
それが落ち着くと、縄文土器の復元を経験したことがある私は、職業眼というか、その目で修復の詳細を観察し始めた。ところが、何れも焼成時のヒビ割れらしきものがわずかに見える程度で、接合部が見当たらない。どう見ても完形品で、よくも土圧で壊れなかったものと感心した。
一方、フロアーの中央には、接合面に石膏の白色が目立つ「これが復元だ」という、自分にも納得できる埴輪が10点展示してある。こちらは、太いモールに接触しているほど、狭い空間にひしめき合っていた。
発掘時のパネル写真がある。おびただしい埴輪片のみが写っているから、完形品は無かったとの考えに傾き始めた。ところが、ガラスケース内にある別の埴輪も完璧で、重文指定書が前面に誇らしげに置かれている。
ここまでに挙げた私の疑問は、「発掘した埴輪が完璧すぎる(復元した痕跡が無い)」というものだが、一般の見学者は驚きの声をあげるものの、極普通に二階の展示室へ去っていく。
階上の展示室も、弥生時代の管玉を作る日本最古といわれる工房跡の出土品や倭武尊(やまとたけるのみこと)と同じ様式の刀など、かなり充実していた。長瀬高浜遺跡発掘品の展示のために、この資料館が建てられたのは明らかだった。
帰り際に、一人だけいた女性職員に、くすぶり続ける疑問をぶつけてみた。 「本物です」と言い切り、続く「東京へ修理(復元)に出しました。ずいぶんお金が掛かったようです」との補足に、疑惑は氷解した。
完全無欠に再生したプロの技に嫉妬するわけではないが、見栄えを良くするために強制的に接合し、色を重ね塗りしたのではないかと勘ぐってしまう復元手法には疑問を感じる。「接合部や欠落部分は、ソレと分かる復元が自然ではないか」と思ったが、自分の技術不足の言い訳になる…。
思いにふけっている時間は無い。次は倉吉市の三明寺古墳だ。
平成7年11月