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桜と縄文の旅〈青森県〉

弘前城「桜祭り」 青森県弘前市

 発荷峠から、山側の林間に黒ずんだ雪の残る十和田湖畔を通り黒石を経て弘前へ向かう。「大湯・縄文の祈り」の後はパーッと華やかに、ゴールデンウィークとしては日本有数の観客動員数を誇る「弘前さくらまつり」だ。

 駐車場として、弘前公園・弘前城址にある市立博物館を選んだ。「でも考える事は皆同じだからなー」と心配しながら堀を渡ると、予想外の管理人が出現した。敵もガードが固いと思ったが、「どちらへ」の声に「博物館」と答えると、ナンバーを控えられたが、無事桜祭りのど真ん中に駐車場を確保することができた。主目的は違うがウソではない。

 いつも思うのだが、高速道路は一種の閉ざされた社会で、情報はIC名と距離を表示する緑色の標識に限られる。そのために、移動した実感がない。インターで降りてもそう街並は変わらないから、果たして目的地まで来たのだろうかと不安を感じる。
 そこに、津軽弁の「特別展開催中です、ごゆっくりどーぞ」が来た。若い女性が「なまった」口上を述べる意外性に、「うーん、やっぱり来たんだなー」と初めて青森の地を実感できた。しかし、博物館好きの自分でも関心はすでに桜色で、一宿一飯ならぬ駐車場拝借の義理もあってザーッと参観するに止まった。

 期待の桜花だったが、赤い欄干の橋から見下ろす深い堀の水面に居場所を変えていた。「花筏(はないかだ)」と呼ばれる一面に浮いている花片の密度が濃いのか、風で吹き寄せられて現れている水面はわずかだ。その黒がスパイスのように天守閣の白壁を際だたせ、ポスターに使われるような満開は見られなかった不満も消え去った。
 代わって盛りを迎えているのが八重咲きの枝垂桜。しかし、濃いピンクに重そうな花弁はやや軽快さを欠いていた。紅白のぼんぼりと浮かれたザワめきをかき分け終えると、盛りだくさんの今日一日のメニューの一つはあっけなく終わった。

亀ガ岡遺跡 青森県西津軽郡木造町

 五所川原市から亀ガ岡遺跡への道は、リンゴの花の下にはタンポポの絨毯が続いた。その白と黄金の上の青空には、すそが春霞に溶けて雪を冠った岩木山の頂だけが凧の様に浮かび、大いに津軽気分を盛り上げた。

 津軽藩の記録に「昔より大小様々な珍しい瓶が掘り出されたので、この地を亀ガ岡という」とある。その「亀ガ岡縄文館」は、りっぱな建物の割に内容物が乏しかった。掘り出された土器は数千個に達したといわれるが、すでに明治の頃からマニアや骨董商に流れ盗掘も盛んに行われたというから、大部分が全国に散逸したのだろうか。

 「あれ、こんな所に…」という重文の遮光器式土偶が、無造作に置いてある。不思議に思って一人だけの管理人に訊くと、やはりレプリカだった。「個人蔵の実物は時々県立郷土館へ貸し出されるから運が良ければそこで見られるかも知れない」と話してくれた。

 この独特の土偶はどう見ても宇宙服に見える。ヘルメットの中の目は(見たことはないが)エスキモーが使う木製のサングラスに似ている。それに関連して、「十和田にはキリスト伝説もある事からキリストの祖先を宇宙人とし、目が青いので先住民に不安を与えないためにアラスカで見た遮光式サングラスを常用した」という説はどうだろうか。
 儀式的な目的に作られた非実用な土器が多いことから、彼らの持つ超能力への畏れが呪術の対象になったのではないか。そんな事を思いながら展示品を見た。

 「縄文館」という名称に期待しすぎたためか、余りに寂しい展示に「亀ガ岡は何処へ行った」とその存在の希薄感を抱いたまま館を後にした。

 厳しい自然を生き抜き、北海道から中部・近畿地方まで影響を与えたという独特の土器を創りあげた亀ガ岡人。縄文最後の文化の中心が、なぜ「この地」なのか。日本のどこでも見られる、あくまでも明るく緑が鮮やかな五月のありふれた風景の中で、「最果ての地に花開いた縄文文化」の「最果て」のイメージはどこにもなかった。
 車のフロントガラスを通して近づくすべてのモノは、「カメガオカー」と笑うが如く通り過ぎて行くようにも思える。バス停を見つけた。山登りで三角点を確認するように、丸い表示板に近づき「か・め・が・お・か」と読んでみた。

 片足を無くした土偶に会えるかな、と淡い期待を抱いて青森へ向かったが、渋滞に巻き込まれたので諦めて十和田市へ向かった。

昭和60年5月

 平成元年8月に、津軽・下北半島を一周したおりに県立青森郷土館へ寄る機会があった。フロアー毎に常駐している女性職員に「重要文化財の土偶はどこに展示してありますか」と聞いたら、「東京」と返ってきた。

 個人の手から離れて国立博物館が所蔵と思い込んだが、その後の調べで文化庁所蔵となっていた。経緯は分からぬが、ここは青森県にがんばって欲しかった。一極集中も便利だが、現地での対面は感激が一塩だからだ。