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「青天の霹靂」七廻り鏡塚資料館〈栃木県下都賀郡大平町〉

 青森からの帰り、ポッカリ空いた時間を利用して古墳見学でも、と欲張った。道路地図で、宇都宮から上信越自動車道の藤岡IC辺りまで、有名無名に関わらず興味を引いた史跡類の赤い文字を拾い読みしていると、「七廻り鏡塚資料館」があった。所在地を「栃木県下都賀郡大平町」と挙げても当惑するばかりと思われるが、「栃木市の南西に位置する」と言えば幾らかはわかってもらえるだろうか。

 「七廻り鏡塚」と単独の史跡名が付けられたからには、かなりのモノが一括して展示してあるに違いない。「鏡と塚」からも、ガラスケースの中で鈍く緑色に光る鏡類を想像した。もちろん、かつて見学した群馬県太田市の「塚廻り4号墳」の名称の類似性と、その出土品の葬送儀礼を表していると言われる見事な埴輪群も頭の隅にはあった。

 ところが、広大な日立製作所と桜並木の道を挟んで存在する、町民センター・図書館・消防署・保育園という町「中枢部」の一画には資料館はなかった。取りあえず併設の可能性がある住民センターに向かった。
 しかし、館内の案内図にはそれらしき名前はなく、幸か不幸かロビーの隅に数点が展示、ということもなかった。同じ訊くなら本命の図書館へと気持ちを切り替えたが、汗が収まった身では、その間に横たわる灼けたコンクリートの海原を渡る勇気が…。

 キーボードを押しながら貸し出し業務をしている若い女性職員を見つけた。先客の手続きが長引くのをいいことに、彼女の横顔をさりげなく見つめ、これから始まるであろう会話をあれこれ想像すると心が弾んだ。
 自分のように資料館の所在を尋ねて来るケースが多いのだろう。脇からコピーした手書きの地図を取り上げ、「住民センターができたので移転しました」と詳しく説明してくれた。カウンターの前は自分一人で、粘ればまだ続きそうな会話だったが、旅の身空では、館内の快適な空気とともに断ち切るしかなかった。

 大平町歴史民俗資料館は、やや低く設定されているように思える冷房に一息も二息もつけた。この季節は、博物館・資料館などの(冷房のある)公共施設はまことに都合がよい。お茶や冷水のサービスもあって旅人には格好のオアシスだ。その一方で、炎天下の駐車場では車が地獄のサウナと化しているのだが、そのことは考えないことにした。

 室の中央に大きな展示ケースがあり、予想もしなかった巨大な出土品が横たわっていた。それは、全長5.5m、幅1.1mの舟形木棺だった。自慢するわけではないが、古代石造物マニアである自分は、石の棺桶だけはかなりの数を見ている。しかし、ほぼ完全という木棺は初めてで、かなりのインパクトを受けた。「一挙」に見るのはもったいないと一旦戻り、展示の矢印に従った。

 展示品の見学を重ねるに従って、この資料館がタダモノでないことに気が付いた。一括して重要文化財に指定されていることもあるが、木製品や革製品がやたらと多いのだ。中でも、古墳時代で完全な状態で出土したのは初めてという玉纒(たままき)太刀や木製の鏑矢(かぶらや)、木目から判断すると1本の大木から「削り出された」という大弓、靱の革・革紐などが目を引いた。

 縄文や弥生時代でも、湿地や泥炭層に埋没した木製品が腐らずに残っていることは珍しくない。この古墳も、「石室がかつて沼沢地であったことを示す青色粘土層に掘り込まれたため、鉄・木・革製品の完形品が多く残されていた」とある。この時代では極めて少ない木製品がこれほど大量に発掘され、また、地方の資料館にあること自体が驚きだった。

 昭和44年4月とある発掘時の様子を撮影したパネル写真を、保存復元された現物の前で見ると当時の興奮がよみがえってくるようだ。改めて、三体並んだ大型木製品を見る。発掘初期の段階では、「白く美しい木肌を残し桧特有の香りもわずかに漂っていた」という、今は化学保存処理された縄掛け突起が残る灰色の蓋と身が並列に並んでいる。さらに、長さ2.1メートル幅45センチの組み合わせ式木棺がそれに沿うように置かれている。余りにも生々しい木肌や加工痕に、「これは本物ですか」と職員に確かめずにいられないほどだった(実際に確認してしまった)

 道路地図で見つけた「ついでに」という軽い気持ちで訪れた資料館に、これほどの「大物」があろうとは。まさに自分にとって「青天の霹靂」だった。

 後に、白石太一郎著『古墳の知識T・墳丘と内部構造』を開くと、わずか6行ながら説明文があり図も載っていた。一応目を通したはずだが、この「検出された」とある文字からは、まさか現物が残っていようとは想像もできなかったし、その「七廻り鏡塚」の名前も記憶には全くなかった。

平成7年8月