黒く濡れた参道に、楓の下だけに落葉がまとまって張り付いている。その赤い塊を幾つもやり過ごしたが、行き会う人もなく、石上神宮の杜は重く暗く動きを止めていた。その中で、そこだけ一日が始まっているかのように、放し飼いの鶏が数匹せわしなく動き回っている。鳴き声と褐色の体を避けて、額束に「布留御魂(ふるみたま)」と書かれた鳥居をくぐった。
すでに8時を回っているが、明け方の雨の影響か、境内はしっとりとした夜気が残っているようで古社の趣を強く感じさせている。犬を連れた父娘が玉砂利を鳴らしながら通り過ぎると、吐く息だけが白く動く神さびた世界がすべて自分のものになった。
杉の大木に注連縄が掛けられている。
うまさけを 三輪の祝か斎う杉
手触れし罪か 君に逢いがたき
樹上の小鳥が騒がしいほどさえずりを交わしているが、灯篭にはまだ灯が残っている。そのスリガラスを透かして寝ぼけたように灯る電球が明るいと感じるほど、杜の底は、今だにまどろんでいるように思えた。
楼門をくぐると、頭上に木々が無い分、目の前が明るく広がった。真っ先に献花された菊に目が行ったが、拝殿の白壁と柱の丹も負けずに鮮やかだ。それを、甲板(こういた)の緑青(ろくしょう)と檜皮(ひわだ)の屋根が程よく落ちつかせている。その前に立つと、雨垂れが未だに落ち続けているのを知った。
緑濃い杜から、黄一色の円錐形が頭部をのぞかせている。その大銀杏を見上げながら、石神神宮の杜を抜けた。
古道の雰囲気が感じられる梅の木のアーチが続く道が終ると、布留(ふる)川だ。コンクリートとアルミの手すりの橋に、何年か前に渡った時は木造だったがと思いながら、小さな割に深い川底を見下ろした。ドブ川の記憶があったが、今日は雨後のためかゴミは少なかった。
石上 布留の高橋高高に
妹が待つらむ 夜ぞ更けにける
山辺の道・北行のルートは、はっきり残っていないのか東海自然歩道に組み込まれている。そのため、標識は「東海自然歩道」となる。しばらくは左手に天理教の豪奢な建物群が続いたが、右手の、山の紅葉と共に山裾をウネウネと辿る小道の雰囲気はよかった。まさしく山の辺の道だ。
天理東インターへ向かう道を横切り、山際まで続いていた住宅が途切れる頃、犬が後をついて来るのに気が付いた。しかし、心細くなるのか、時々自分の住処を確認するように遠くなった人家の方を振り向く。その姿もいつの間にか消えていた。
柿畑が続く。罪の意識を持ちながら手を延ばしたが、形に似合わず渋柿で「柿採るな」の文字が恨めしかった。一山越えると名阪国道で、その下のトンネルをくぐると、工事中の表示が東海自然歩道は迂回と告げていた。
途中で標識を見失ない、思い切って畑中の小道に踏み込んだ。行き会った軽トラックにキャベツを積み込んでいる夫婦に「東海自然歩道」を尋ねた。「山辺の道」はこの道ではないが、ここら辺はどこを通っても奈良へ行けると言い、昔はあの薮の中を越えて行った、と指をさした。
しかし、その道は露をたっぷり含んだ草に覆われおり、靴が濡れるのを嫌って思い切りよく引き返した。
代りに、山際を流れる用水に沿った畦道を見つけた。ウルシの真っ赤な葉が点在する趣のある道も、ここが奈良でなければ単なる山道だが、とにかく、歩くという行為に心身とも高揚する。
しばらく進むと、正面の、田や川を挟んだ彼方の車道に見覚えのある姿が見えた。白川溜池で自分を追い越していった男性だ。その彼を目標にして「近道を」と田圃に降りたのが間違いの元だった。その結果は弘仁寺をパスした格好になり、気が付いた時点で引き返す羽目になった。
出発時は薄日が射していたが、今はすっかり雲に覆われている。昨日の葛城古道歩きの疲れが残る足にマメができたのに加え、迂回等で時間をロスし、弘仁寺への暗く湿った石段を上る頃には胸に重いモノが広がり始めた。
丘陵上にある、虚空蔵菩薩を本尊とするこじんまりした寺は改修中で、瓦と桧皮の山が目に付いた。境内隅の銀杏の木の下に黄色い落ち葉の絨毯が敷かれ、隣の楓の赤い絨毯が一部重なっているのが曇空にも関わらず非常に鮮やかだ。思わず歓声をあげると、滅入った気分もかなり和らいだ。
ほぼコースの中間点に入ったことを地図で確認すると、鋭気を取り戻した。「村の鎮守の神様の」と口ずさめる八坂神社から正暦寺(しょうりゃくじ)への道をたどる。
五ッ塚古墳は、山道の右手に沿って、径10m位の小山が10mおきにポコポコと、名前の通り5基連なっている。穴を覗くのが好きな自分は、ガイドブック通りに南側に回り込んで石室を覗いたが、開口部は狭く内部は全く見えなかった。
ベレー帽をかぶった中年の女性が下りて来た。いかにも「歩きのプロ」というキマった姿を見て、改めて自分を振り返ってみた。せめて、人に行き会う時くらいは颯爽と歩こうと反省した。
円照寺歴代門跡の墓の入口は標識がなく、一般の立ち入りを嫌っているかのようだった。宮内庁管理の古墳の前に必ずある管理棟と高札がここにも在り、その存在が皇族との縁を表していた。手入れの行き届いた石段を上ると、左右に何段かに別れた墓地が現れた。質素な石塔そのままに各住職の人柄を偲べば、自然に手を合わせ会釈をしてしまう。
正暦寺は既に参拝済みだったので、ここから引き返した。赤い鳥居が遠くからも目立った竜王池の堤で簡単な昼食を済ませ、再び自然歩道に入った。
円照寺前までの細い道は両側に有刺鉄線が続き、「猛犬注意」の立て札が如何にも尼寺らしかった。法華寺・中宮寺と並ぶ奈良三門跡の一つである円照寺は、山門は開いていたが中に入る事はためらわれた。拝観謝絶だからだ。
それでも一歩だけ踏み込み、山門の下から境内をうかがった。足元の白砂は掃き目が清々しく、左手の白壁の上には、見越しの松ならぬ楓の赤が鮮やかだ。本坊は、玄関前の左右に張った松の緑と瓦の色がうまく調和した簡素な佇まいだった。帰りの参道で和服姿の婦人達とすれ違い、茶会か何かで門が開いていたのかと想像してみた。
祟道陵の前は、道が穴を避けて両側に広がっていると言うより、道の真ん中に大穴が開いていると言った方が分かりやすい。六畳はあるかというその穴の底に、古墳の大石が幾つも崩れたままになっている。「八っ石」と呼ばれ「天から降ってきたと伝えられ、取り除くと祟りがある」との話だが、未だに道路がそれを避けているのが山辺の道を歩く者には単純にうれしい。
鹿野園(ろくやおん)町に入ると、左前方に奈良の市街地が見通せる。この道を辿った古人(いにしえびと)は「おあによし」の都をどのように眺めたのだろう。恋人を武烈天皇に殺されて奈良山に駆け付けたと伝わる「影姫」も、ここで佐紀の山並を見て涙を新たにしたのだろうか。
ようやく有終の地を目に得たが、地図ではまだ先の長いこと知ると足が重くなった。通り掛かったおばあさんに「あの塔は興福寺ですか」と話しかけると、少しズレた「猿沢の池辺りだね」が返ってきた。休日には朝から大勢の人がこの道を歩いているとも言ったが、自分が今日出会ったのは20人位で、紅葉のシーズンにしては少なく静かだった。
高円山(たかまどやま)ドライブウェイへ続く道を横切り、ちょっとした丘を越えると百毫寺(びゃくごうじ)町だ。ここからは着飾った観光客が増え、足元が汚れたザック姿が恥ずかしいほどになった。百毫寺の「寺花」である萩は、枝垂れたままの枝に枯れ葉が残っているものもあったが、大部分は根元から刈り取られ、あの趣のある石段はさっぱりとしていた。
行き交う人々を避けながら新薬師寺へ向かうと新しいマンションが目につき、「ここら辺も変わったなー」との思いを強くした。ところが、その入口の左手に続く川沿いの塀の下に、見覚えのある小さな板が「ただ」置かれているのに気がついた。
万葉歌の書かれた手造りのそれは、以前(昭和58年正月)新薬師寺から百毫寺へ向かった時には、川を挟んだ民家の板壁に掛かっていたものだ。
能登川の 水底さへに 照るまでに
三笠の山は 咲きにけるかも
これが能登川なのだろうかと、改修されたコンクリート川を見ながらその木札の流転を考えてみた。「取り壊されて生まれ変わったマンションの片隅に、奇跡的に生き延びた板切れ」と考えると非常にドラマチックだが、民家とこのマンションが同じ場所とは言い切れないので断定はできない。いたずらでないとすると、関係者が捨てきれなかった何かがあったのだろう。
新薬師寺は修理中で、すっぽり工事用の板壁に覆われていた。入口の小さな小屋で拝観料をとっているのがまるで見せ物小屋の様で、風情が全く無く素通りした。
志賀直哉旧居の辺りまで下ると、益々賑やかになった。東大寺大仏殿前から続く道は大渋滞で、車の脇で小さくなって眺めた高円や春日の山は紅葉が美しかったが、若草山はハゲ山の様に見えた。
奈良公園の華やかな人の群と、今日東海自然歩道で出会った足拵えのしっかりした人達とをどうしても比べてしまい、全く馴染めない自分に戸惑った。「天理から歩いて来たんだ」と心内で反発してみたが、楽しく語らいながら歩く若者達にわかろうはずもなく、自己満足だけが虚しく響いた。
それも、猿沢の池からの雑踏に身を置いて土産を品定めしている内に、いつの間にか一般観光客にとけ込んでいる自分に気が付いた。悲しくはあったが、古(いにしえ)から戻った身では現実を肯定するしかない。
(長野県と違い)JR奈良駅から待たずに電車に乗れたが、車窓から歩き通した山の辺を眺める元気もなく、ただ目を閉じた。
天理駅前の商店街を抜け、気晴らしに天理教会の広大な敷地を突っ切って石上神宮の駐車場へ向かったが、これからの長時間運転を思うと、お土産に求めた奈良漬の袋がズシリと重くなった。
平成2年11月