8月初旬の立石寺門前町。町外れの駐車場から歩き始めた車中泊者にとっては、この季節での7時半は「昼の始まり」だ。しかし、出会う人は地元の人ばかりで、それも疎らとくれば、この通りには今だ「いつもの早朝」という空気に包まれていた。
飲食店もすべて扉を閉ざして全くつれないが、一人旅では、唯一開かれたショーウィンドウをのぞき込み、一方的ながらコミニュケーションを持とうとしてしまう。
土産物屋だけは開いているが、朝日が差し込んで原色を輝かせている店頭に比べ、その奥はやや暗い。様々なモノに囲まれた狭い通路はこの時間帯ではまだ撹拌されず、まだ昨夜の空気が澱んでいるようだ。
「山寺登山口」と表示がある石段の両脇に、紅花が一群(むら)ずつ咲いている。そのオレンジと赤が強烈な生花を初めて見て「ここは山形」を実感したが、その間を三々五々という形で登って行く参拝者に立ち止まる人はいなかった。
「ブナ材では最古」と説明板にある根本中堂の軒下に、全身をテカテカに光らせた像が福々しい顔で笑っている。「賓頭盧(びんずる)さんにしては楽しそうだな」と近寄ると、「一木造りの招福布袋尊」とある。賓頭盧尊者との違いが怪しかったので、ここは眺めるだけにした。
「宝珠山立石寺」と書かれた茅葺きの山門前には茶店が並び、ここでは人の流れが停滞していた。幟旗や看板の文字から、一串三玉の「力(ちから)コンニャク」がここの名物らしい。
力餅ならわかるが、今ではノンカロリーと言われダイエットに欠かせないコンニャクでは「奥の院まで辿り着けないのでは」と思うが、そんな私の心配をよそに、そのダシの効いた匂いは立石寺の名物を精一杯謳っている。
暗く湿った参道を登る。ここでは太陽の直射がさえぎられ、紫陽花も未だに色鮮やかだ。頭上から巨岩奇岩が迫る。仰ぐ岩肌には多くの磨蓋仏が彫られ、一般的な石塔(つまり墓石)もあるので空中墓地の感がある。
お地蔵様の前に人形が供えられている。薄汚れた顔に艶のある乱れ髪が前日の雨で張り付いている。それが何ともリアルで、パッチリと見開いた目と共に薄気味悪い。哺乳瓶が置かれ、傍らのカラフルな風車は恐山を連想させた。
芭蕉縁の「蝉塚」は暗い林間に冴えなく建っており、足元に気をとられていると見逃す程だった。
樹木と岩の二大勢力に空が割り込み、明るく乾燥した空気に変わった。参道右側の急傾斜地に辛うじて確保された階段状の平地に塔頭(たっちゅう)が建てられている。その前には小さいながらも畑があり夏野菜が見られるが、背後は、僅かな空間を残して屋根まで届こうかという石垣がそそり立っている。
その上からギボシが縦長の狭い空間をのぞき込むように紫の花を垂らしているが、急傾斜の参道を登り続ける自分はすでに石垣の最上部と同じ高さに達しており、次の塔頭の庭や畑に目線が合っていた。
駐車場でもらった観光案内図には、塔頭の名前が「性愛院」「金乗院」「中性院」とあるが、「性愛」には首をひねった。仏教用語では崇高な意味だろうかと思ったが、立石寺の拝観券では「性相院」となっている。自分も時々やってしまう、漢字変換の第一候補が「性愛」だったと想像してみた。
現在では危険防止のため通行止めになっている、胎内巡りのある山側の胎内堂や釈迦堂を眺めた。『おくのほそ道』では「岸をめぐり、岩を這(っ)て…」とあるから、芭蕉と曾良が這い付くばって進む姿を自分なりに想像してみた。しかし、イメージとして固定していなかった俳聖の顔は、…ノッペラボーだった。
最上部である奥ノ院の大仏殿前の広場は明るく開け、独特の風景を創り出している。しかし、人の群れを消し去ったとしても、「佳景寂寞(じゃくまく)として、心すみ行のみおぼゆ」と記した芭蕉の世界には程遠い、カラッと乾いた極普通の名所旧跡だった。
先祖の供養を行うという大仏殿をのぞいてみた。夏の陽光に順応した目では真っ暗とも言える堂内に、わずかな外光に金色を返した仏像の凸部だけが見えた。
大仏殿の左脇の一等地に「小嶋家の墓」がある。別に住職や偉人の墓というわけではないようで、極普通の墓石だ。参道脇にもある多種多様の石塔から、「誰でも好きな所へどうぞ、早い者勝ちです」と思えるほど無秩序に建てられた石造物に、山一帯を墓所にしたこの寺の独自性が理解できた。
重文の三重小塔など、一つずつ拝観をこなした。いずれも背景に奇岩奇石が点在する景観になるので、五大堂から見下ろした門前町は、その分だけありふれた眺めになってしまった。
天華(天狗)岩の名前に釣られて更に奥に向かうと、ここの地形としては不思議に思えるほどの広い平地がある。その奥に目を遣ると、何と茶店だ。周囲を山と木で囲まれている上に風がないので、お馴染みとなった力コンニャクの匂いがここまで漂ってきている。目を閉じれば、まるで冬のコンビニだ。
長イスが何通りも道に沿って並べられている。(長野県)木曽御岳山にあるその中にしか道がない山小屋のように、避けては通れない仕組みだ。おばさんの呼び込みに感化されないように、一番離れたイスの脇を通った。
再び聞こえた掛け声に振り向くと、後続の若いカップルが「おいしいよ」の声に捕まっていた。男性は気が進まないようだったが、「私が作ったんだから」のだめ押しに諦めたのか、連れに了解をとるように一言話してから座ったのが見えた。
完全に日陰となった突き当たりに、山寺一の名岩がそびえている。麓から見ると天狗に見えると言うが、ここではただの大岩だった。
往きには気が付かなかったが、下山の余裕か、塔頭前の庭木が白い大柄の花を付けているのに気が付いた。その周りで一服していた参拝者のグループに尋ねると、ひとしきり論議があってから「泰山木(たいさんぼく)」と落ち着いた。花期が今年は遅いという話から、まだ膨らんだままのつぼみが多い木姿が、いつ明けたのか分からない今年の梅雨を象徴していた。
下山してみれば、セミの鳴き声は「全て岩に吸収された」かのように全く聞こえなかった。次の山寺芭蕉記念館へ向かう道は、夏とは思えぬ風の冷たさにTシャツ一枚では寒かった。
夏が終わってみれば、今まで経験したことがない冷夏だった。何年か前、「閑さや 岩にしみ入 蝉の声」を体感しようと、同じ8月に立石寺を訪れた。その時は大汗をかき、のぼせた脳にしみ込んだセミがいつまでも頭の中で鳴いていたが。
芭蕉の「閑かさや…」について、図書館で本や資料を拾い読みした。その中で、森本哲朗さんの解釈「実際に経験した、カナカナと岩に染み込むように鳴く一匹の蜩(ニイニイゼミ=ひぐらし)が最もふさわしい」に説得力があった。
それとは別に、以前購入してそのままだった『おくの細道』を読んでみた。今の暦では7月13日(旧暦5月27日)にあたる立石寺の項には、「…日いまだ暮れず。…岩上の院々扉を閉て、物の音聞こえず。…」とある。これから判断すると、参拝客も下山した今で言う拝観時間の過ぎた、夏の長い一日もようやく終わろうとする山寺の情景を記録した文ととれる。
また、『曾良旅日記』では「7月3日より終日晴朗の日なし。11日、12日も小雨」とあることから、梅雨の真最中である事は間違いない。参拝した13日と翌日は「天気能(よし)」と書いているが、他の日には「快晴」の文字も見える。その「よし」も、「能」と「吉」の二種類あるので、具体的な天候は浮かび上がってこない。とにかくこの両日は久しぶりに雨が上がったことだけはわかる。
芭蕉の『俳諧書留』には、「山寺や石にしみつく蝉の声」とある。これは「岩に染み付くほどうるさく鳴く」と素直に解釈できる。しかし、前述の「物音が聞こえない」とは相反するから、森本さんの解釈が再び浮上してくる。
しかし、推敲に推敲を重ねた(句と、詠んだ現状とは一致しない)過程からは、「山寺・岩・静かさ」を表現するには、しっとりと心に染みる「カナカナ」では弱いような気がする。一応、ヒグラシで書き留め、しばらくの間これに代わるものを探していたのではないだろうか。
何年か前、鶴岡に近い朝日村の本名寺では、脳まで共鳴する程の鳴き声を体験している。芭蕉が日本海へ抜けた八月初めは、セミが「合唱命」とばかり鳴き喚いていたはずだから、芭蕉が、何かの拍子で一斉に鳴き止んだ後に訪れた静寂に身を置いたことが一度や二度あったに違いない。
「今までの騒ぎが、まるで何かに吸い取られたようだ。…おっ、これは使える。あの山寺の静寂を表現するには、「強」から一気に「無」にするしかない。「あの時はヒグラシだったが、ミンミンゼミにして、その鳴き声を寺の周囲を巡る岩が全て吸い取ったことにしよう」とは、自分の勝手な想像だが、改めて
「閑さや 岩にしみ入 蝉の声」
念のために『曾良旅日記』を読み直してみたが、「その時、師匠が得意気にガッツポーズをした」とは書いてなかった。
平成5年8月