「鷺舞とSLの小京都」としか知らなかった津和野。その漠然としたイメージに一石を投じたのが、NHKテレビ「国宝への旅・大浦天主堂」だった。
「サンタマリアの御像はどこ。ここにおります私たちは、皆、あなた様と同じ心でございます」の言葉から始まった浦上村の隠れキリシタン迫害の歴史は、番組内では一つのエピソードに過ぎなかった。
しかし、「小京都」の愛称と、やさしい響きを持つ「つわの」という町に確実に存在した歴史を知り、主役である大浦天主堂はさておき、島根県の津和野にすっかり惹きつけられてしまった。
長い間、心のデータベース「何時か行きたい街」に登録した「殉教の地津和野」は、単に文字の羅列に過ぎなかった。ところが、今年のゴールデンウィークは何処に行こうかとあれこれ調べる中で、ガイドブックに「5月3日に乙女峠まつりがあり、各地の信者が集まる」とあるのを見つけた。
案内記事や地図から、にわかに、緑に包まれた津和野のイメージが膨らんできた。山陰の出雲以西は未走破であることから、季節もタイミングもよしと、その日に合わせた石見路(いわみじ)をたどる計画を立てた。
8時半には早くも開館していた津和野町立郷土館でキリシタン殉教の予備知識を得てから、横にしたり縦にしたりと、さっぱり要領を得ない観光絵地図を頼りに殿町へ引き返した。
教会前の広場は、すでに、地区名の書かれたプラカードを持つ各地の信者でごった返していた。子供から年配者までと層は厚いが、一見信者とわかるベールを被った女性の姿はわずかで、ハイキングの軽装にザックを背負った人が多い。教会の建物を除けば、外国人の姿が若干多いのと、庭に設置されたスピーカーから賛美歌が流れていることから宗教関係の行事であることが分かる程度である。
時折、案内や連絡のアナウンスがあり、部外者である私だが徐々に気分が高まる。間違いなく主催者の主旨とはズレているが、一応「まつり(祭)」とあるから素直に受け入れ、共に楽しむことにした。
開始までの時間を利用し、教会内を見学した。長崎の大浦天主堂、天草の大江天主堂・崎津天主堂、平戸のザビエル記念教会等、何れも信者でないため遠慮して外からのぞいた程度で、実際に中へ入るのは初めてである。
正面最奥にキリスト像があり、その両脇の一段張り出た壁面には、左にマリア像・右に男性像が掛けられている。祭壇の一番手前には磔(はりつけ)にされたキリスト像があり、その脇には「今週の標語」と言うと叱られそうだが、その類の紙に「神はこれほどまでにも世を愛された」と書いてある。盛花のテッポウユリの白にカーネーションの赤が鮮やかだ。
窓は赤・緑・黄のステンドグラスで、左右の壁にはキリスト受難や殉教の絵が何枚も掛けられている。床は板敷で左右に別れて畳が敷かれ、隅に座布団が重ねてあるのが面白い。左手には、輿に60センチ位の白い女性の立像が安置されている。それが今日のシンボル聖母マリアであることは容易に察知できた。
あくまで控えめに、さりげなく堂内を観察したが、立ったままでは、座って一心に祈る人々からは完全に浮いているのがわかる。しかし、神社・仏閣においても(挨拶はするが)祈ることをしない自分から見ると、その世界に浸りきっている人々は実に不思議な存在に映る。
ところで、あの壁面のマリア像と対になる男性像は何者だろう。聖母は処女受胎と聞いているから当然夫ではないし、マリアの父とも思えない。同格とすればキリストの一番弟子なのだろうか。
ここで、キリスト教の知識が全くないことを思い知らされた。考えてみると、カトリックとプロテスタント、司祭、司教、牧師、ミサ、聖体拝領と簡単に口から出るが、具体的な違い・役割・内容については説明ができない。
ここでは、部外者に対する排除の視線は全く感じられないが、静かな祈りの世界を乱しているのは間違いない。早々に退散して、広場の隅にある小さな資料館に入った。世界各国の聖書が展示され、津和野の殉教の歴史がジオラマで展示されている。ここで10時出発と確かめてから、一旦教会の外に出た。
まだ余裕のある時間を利用して津和野の散策を考えたが、結局はここから離れられずに、他の見物客と共に道の反対側で待つことにした。改めて教会を眺めると、古めかしい「教會」の表札とともに、塀はないが見越し風の松がいかにも日本の教会らしいと感じ入った。
その前に「徳山カトリック教会」の貸切バスが止まり多数の信者が降り立ったが、すぐに広場の集団に吸収されていった。トイレ案内と連絡事項のアナウンスがある。シスターの歩く姿にも落ち着きが見られない。しかし、津和野の観光メインストリートである殿町通りをそぞろ歩く観光客は、教会前の集団を怪訝そうに眺めるだけで通り過ぎて行く。
右隣のお婆さんが、手をつないだ孫に祭の様子を話しているので、「乙女峠はどの方向ですか」と訊いてみた。ところが、耳が遠いのか何回も聞き直されて困ってしまった。子供の隣に立つ男性が見兼ねて教えてくれたが、その後の観察で親子三代で見物と分かった。
白いスパッツもまぶしい、なかなかカッコよい警察官が現れ交通整理を始めた。尾道・岡山の行列が道に並び始めた。いよいよだ。
出発のセレモニーが見たくて、再び人をかき分け広場の中へ入った。すでに教会前のポーチにはマリア像の輿が安置され、その前に、高校生なのか余り垢抜けない顔が却って「乙女峠まつり」の名にふさわしい若い女性が二人待機している。ベールを被り、白いドレスの腰に水色のスカーフを結び垂らしている。その姿は清清しいが、やや緊張気味だ。
教会脇には、教会併設の幼稚園児が並び、年長組の男児は、白い服に赤い蝶ネクタイと赤いスカートの正装に日の丸の旗を持つ。女児は、ピンクの花飾りをつけた白いベールに、乙女のお姉さん同様白い服に水色のスカーフをまき、花籠を提げている。
子供だけあって出発前の緊張感もなく屈託がない。ポーチから、そんな彼らを慈しむようにやさしく見守る外国人の司祭の笑顔が実によい。極自然な笑顔がこれほど心に残るのは、彼が聖職者であるためだけだろうか。日本人(特に自分)には真似のできない彼の表情は、キリストもきっとこんな笑顔を絶やさずにいたに違いない、と思えるほどだ。
シスター(先生)が予行演習。「鐘を鳴らしたら撒くのですよ」と言ってチリンと鳴らすと、一斉に籠の花を撒く。それに対して「もっと手を高く」と注文をつけている。本番前なのに実際に撒いてしまうのが微笑ましい。これだけの量の花を摘み集めるのは容易なことではないと察するが、すでに色とりどりの花片は足元に散らばっていた。
最近、テレビで花祭りに使われる花摘みを見た。一週間前から集め始め井戸の中に吊るして保存するのだそうだ。
定刻よりやや早く、司祭の挨拶から乙女峠まつりが始まった。話の内容は簡潔で、さすがと思わせた。町長の挨拶はやや長かったが、話の中でさりげなく町をPRする構成力は大したものだった。
車載のスピーカーから賛美歌がながれ、道路で待機していた各地区の信者のパレードが始まったようだが、教会内の年少組の青い制服の園児が動き始めるまでには、かなりの時間を要した。賛美歌が終わり「天に在(ましま)す…。アーメン」の唱和に、シスターがすかさず「チリンチリン」と鳴らし、園児達の本番が始まった。
行列としてはまだ動き出さないその姿を、真ん前から接写に近い位置で数人のカメラマンが一斉にシャッターを切るが、カメラの角度から判断して特定の(写真写りのよい)子供を写しているのが分かる。ただし、現在は機材や姿ではプロにひけをとらないアマチュアが多いから、報道か、趣味(投稿用)か、または単に我子の記念写真なのかは区別がつかない。
ようやく、日の丸、花籠と動き始め、補充用の花籠を持つ引率の若い母親達が、我子の晴れ姿をうれしそうに見ながら後に続く。稚児行列のキリスト教版といったところか。
今日は津和野見物・乙女峠まつりを一日宛てたので、行列に付いて行くことにした。
やはり、花を撒く姿が文句無しにかわいい。その後に4人の女性が輿を担いで続くが、聖母マリアと共に全くの脇役となっていた。マリア像が揺れる。その後に従う同じ姿の女性は交代要員らしい。
四台の車が分散して行列に組み込まれている。スピーカーから賛美歌と祈りが流されると信者が一斉に唱和するが、前後の車のスピーカーの音が聞こえないほど長い列が続く。場所(地区)によっては、ハモる女性の声が美しい。賛美歌322番がメインらしく度々かかるので、すっかりメロディを覚えてしまった。
「チリンチリン・パッ」を見たくて、テレビカメラの取材陣と共に何回も先回りして待ち受けた。沿道の店の前には、仕事の手を休めた見物人(女性が多い)が待ち受けるが、何れの顔もにこやかに子供達を見守っている。
しかし、交通規制を受けない地元商店の車が(連休真っ直中とあって商売に忙しいのか)強引に行列に割り込みクラクションを鳴らし続けるのを見れば、このまつりが町民に受け入られていないのでは・歓迎されていないのではとの思いを感じてしまう。
百年も前の事で、行政の当事者ではなかったとはいえ、迫害した者の側と、された者のわだかまりがいまだに残っているように思えてしまう。今思えば、町長の挨拶も、聞き方によっては弁解とも受け取られるような内容だった。郷土館も、復原した三尺牢はあったものの資料はコピーが多く、パンフレットには「殉教」の文字は全く書かれていなかった。
一台の車(一人の町民)から受けた印象から、これほどまでに「乙女峠まつり」の見方が変わってしまったのが悲しいが、福島県と鹿児島県(会津藩と薩摩藩)、米沢市と赤穂市(上杉藩と赤穂藩)の確執が今でも残っているという現実もある。
しかし、一旅行者が双方の上っ面だけを見てあれこれ言うのも身勝手かと反省し、この出来事を忘れて素直に楽しむことにした。
パレードといっても、各地区の信者は車から流れる賛美歌や祈りに唱和しながらゾロゾロと歩くだけだ。白い舗装に、踏みつぶされて汚くなった花片が張り付いている飲み屋街の中を右へ曲がると、踏切と山が見えた。
警備の警察官に聞いた「主催者発表三千人」の行列は、線路を渡ると全く動かなくなってしまった。津和野駅の裏から始まる山道に詰まったらしい。建物が風避けの役目を果たしていた町中と違い、線路と並行する山沿いの道は、薫風とは名ばかりの冷たい風に吹きさらされ寒く感じる。
行列の最後尾を(信者のフリをしたわけではないが)遠慮しながら付いて行ったが、いつの間にか遅刻信者達が後に続き、背後から祈りと歌が聞こえる。
駐車場から狭い山道が始まったが、百メートルも登らないうちに記念聖堂のある広場に着いた。ここは浦上村のキリシタンが預けられた光琳寺の境内で、今は廃寺となって当時の建物は一切残っていないが、石段や石垣等に寺院の面影が残っている。
その狭い広場は、すでに大勢の信者が待機している。教会からこの会場までは大した距離ではないのだが、この人数だ。二時間かけてようやく先頭集団と最後尾の我々(すでに信者になりきっている)が狭い会場で再会した。
山際にテントが張られ祭壇が作られているが、遠くて子細は分からない。右手の、臨時の「戒告場」と紙が張られたマリア聖堂内では、若い男女の信者が膝をついて一心に祈っているのが不思議に映る。その横手の、山際に立つマリア像の前にも膝まづく姿が見られる。
堂外では赤い襟を着けた内外の司教が五十人位待機している。ダウリング神父に似た顔も見られ、「ステファニーに似た人は」と捜したが、シスターは全て年配の日本人だった(テレビドラマ『名探偵ダウリング神父』)。
祭壇へ続く、左右を杉の葉で飾られた(境をつけた)道を司教達が進み「野外ミサ」が始まった。金色の襟帯を着けた司教(司教も司祭も区別がつかない)が説教を始めた。津和野と殉教者の関わりを話し、この地にまつわる「信仰の光」について分かりやすく話す。流暢な日本語だが、信仰が「しんこ」に聞こえるのにホッとする。我々より上手な日本語を話されると、日本人としての立場がなくなるからだ。
「父と子と聖霊の御名において、アーメン」と、聞き馴れた言葉で締めくると、賛美歌が始まった。背後のスピーカーから美声が流れる。右前部を見ると、信者の頭上から手が伸び揺れている。それが指揮者であることが分かると、ここで初めて合唱団がいるのに気がついた。余りにも上手なのでレコードと思っていた。
祈りには定型の応答があるらしく、「阿」と結ぶと自然に周囲から「云」と唱和する。「平和の挨拶を」の声には、頭が一斉に揺れた。前後左右の人に挨拶するのだ。予期せぬ事態にうろたえ、あわてて頭を下げた。このにわか(ニセ)信者に、周囲は臆せぬようだったが、遠慮して最後部へ引き下がった。壇上では聖杯を持つ司祭のセレモニーが続いているが、何を行っているのかは理解できない。
8人の司教による聖体拝領が始まった。映画等でよく見る、聖杯から白い円盤を配る儀式だ。「祝福を受ける人はその旨を言え」とのアナウンスある。観察していると、遠くて聞こえないが口を動かした信者だけに司祭が頭に手を置き何か呟いている。聖体を口にいれた信者に、その実体を尋ねようと思ったが最後まで言い出せなかった。
「祈りましょう」の言葉の後、周囲の雰囲気から記念ミサが終わったことを知った。
初めて見学した野外ミサだが、津和野の殉教の歴史が簡単ながら頭に入っていただけに、ひとしお身に沁み、半日付き合ったまつりを通して何回もうなずくほど充実した津和野見物となった。
ところが、私にはお祭りだった「乙女峠まつり」が終わりとなると、その余韻が冷めやらぬうちに「道が混まないうちに山を下りなければ」と自己の利益優先の考えが頭を占め、それを実行することによって、もう一つの目的である殉教者の墓・千人塚をお参りするのをすっかり忘れてしまった。
結局、これが津和野を離れてからも糸を引き、自宅へ戻ってからも後悔の念として後々まで残る結果となってしまった。
その後、津和野郷土館で購入した『津和野とキリシタン』を読み、明治政府の対応と、他藩に比べはるかに小藩である津和野藩に特に熱心な信者が預けられた経緯、具体的な改宗・迫害の事実を知った。信者ではない私だが、「いつか津和野再訪を」の想いが益々強くなった。
平成5年5月